育花雨ころに。10




 耳に心地いい音がする。
 ゆるゆると意識が覚醒した幸村は、ゆっくりと起き上がった。
 その音が、雨の降る音だとすぐに気付いた。
 起きあがった自分の肩からずり落ちる上衣に、そういえば陽も高い頃から酒を呑んだことを思い出す。三成からの誘いで、断れなかったのだけれども。
「起きたか」
 部屋の主の姿を探すより先に、その主から声がかかった。幸村が慌てて振り返れば、柱を背にして眠っていたらしい三成が起き抜け特有の不機嫌そうな面持ちでこちらを見ている。
「あ、起こしてしまいましたか」
「いや…雨の音で起きた」
 ならば幸村と同じだ。雨足はさほど強くない。昼には雨が降る気配など微塵もなかったというのに、一体どれほど眠ってしまったのか。
 しばらく互いに無言だった。雨の音をただ聞くだけで、互いに動きもせず。
 土を濡らす雨の匂い。雨の音。それ以外の音がしない静かな世界。
「…夢を、見た」
 その静寂を最初に破ったのは三成だった。
 三成はどこかまだ眠そうで、ぼんやりしている様子だった。多少なりとも酒を入れたのだ。その上三成はあまり酒に強くない。昼すぎに酒を呑んで陽もだいぶ傾いた頃に起きるともなれば、一日の予定は見事に狂ったことだろう。だが、三成はそれに気付いているのかいないのか。静かだった。
「どんな夢です?」
「…戦の夢だ」
 最近では戦自体は減ってきている。そのかわり、諸将は豊臣の世の為に奔走するようになっていた。小さないざこざはまだ起こっているし、それら全てをなくすことも、出来ないだろうが。
 戦は苦手だと言っていたからそんな夢を見たのか。そう思っていた幸村に、三成は苦笑した。
「負け戦だ」
「………」
「俺が大将で…相手は覚えていないが」
 幸村はただじっと聞いていた。三成は負け戦だと言うわりに、その表情には苛立ちも、何もない。
「ただ、大きな合戦だったな。裏切られて、俺はずいぶん絶望していた」
「三成殿、」
 しかし耐えられなくって何か言おうとするのを三成が手で制した。何も言うな、というように遮られて幸村はまた黙りこむ。
「誰が裏切ったのかは覚えていない。が、そのせいで戦線は危うくなり、どうにもならなくなりつつあった」
 ずいぶんよく覚えているようだった。三成の語る言葉の端々に、その戦の気配と臭いを感じるようだ。周囲は霧に覆われて、先が見えない。敵の数も味方の数も、かなりの数。その霧の中で、苛立った。大一大万大吉の旗印を見上げて、祈りもした。勝ってくれ、と。まるで遠くにいる者を思うように。実際、その戦に参加していない兼続と、幸村と。二人の名を呼んで勝ってくれ、と切実に願った。
 だが他での戦がどうなったか知るより前に三成が負けるかもしれないほどの窮地に追い込まれていた。動かない味方軍。裏切りの多発。その上、左近が怪我をしたという報告も得ていた。
「義は潰えるのか、と思ったのだ」
 もうどうしようもない。裏切りにより、敵の数は一方的に増えている。さらにこちらには味方の援軍はない。それまでも戦は苦手だった。こちらの采配ひとつで人の生死に大きく関わる。自分一人でどうにか出来るものではないこの大きな流れ。他人の手を借りることが苦手で、政務であれば自分一人で抱え込めばいいが戦は違う。そうはいかない。
「…くくっ」
 唐突に、肩を揺らして笑いだした三成に幸村が驚く。どうしました、と声をかけようとすれば、三成が顔を上げた。
「そうしたら、な。幸村が来た」
「…私、ですか」
「ああ。ずいぶん遅れてな…。だが、それが逆に効果的だった。敵には俺は援軍などないと思われていたし、味方も皆そう思っていた。だから、…幸村が来るのは信じられないことだった」
 何故だか三成の夢と、幸村が見た夢とが繋がるような気がして、幸村は逸る心臓をおさえつけるのに精いっぱいだった。
 幸村は長篠の夢を見ていた。あの戦の夢。だけれども、今日見たそれはいつもとは違っていた。いつもは、延々と同じ光景を繰り返すばかりで、そこから抜け出すには起きるしかない。そうしてずっと同じ光景ばかり繰り返し、繰り返し。だが今日は違ったのだ。行かねばならないところがある。そう思った途端に力がわいてきた。
 そして三成を見た気がしたのだ。
「…その上、幸村はあっという間に敵を全部倒した。…夢だとはいえ、実に調子のいい夢だったが…俺には、良い夢だった」
 だからか。ようやく気がついた。負け戦の夢を見て、にも関わらず三成の表情はどこか明るかった。語る言葉の端々に、絶望とは違う色があった。経緯はどうあれ、その戦に勝利した、と。そういうことなのだろう。
「三成殿」
 夢の中ででも、そうして三成を助けることが出来たのなら幸村には嬉しかった。その上、自分の夢ともつながっているかのようで不思議な体験だ。
「なんだ?」
「私も、夢を見たのです」
 幸村が見たそれは、過去の夢だ。覆ることのない記憶。実際、戦そのものには負けてしまった。武田はその少し後、滅亡した。そうして残された幸村は、何を信じて生きればいいかわからなくなった。信玄が目指す王道も、もはや見ることはかなわない。
 その絶望に打ちひしがれて、過去の自分と夢の中の自分はいつだって慶次に苦く笑われたものだった。らしくなくて見てられない、と。そればかり。
だが今回は違った。
「私の見た夢も、負け戦でした」
「……幸村」
 何か言おうとする三成を遮って、幸村は笑った。先ほどと同じやり取りだ。立場が逆になっただけのそれに、ますます不思議な感覚が付きまとう。
「いつも見る夢です。夢の中、私は…どうしても、立ち直れずにいた」
 そして命の恩人である慶次にすら、苦く笑われる。
 なんでこの人はこんな価値のない己を助けたのか。今の立場すら捨てて、一体何故。生き伸びたとして、一体何が残るのか。何もわからずに俯いてばかりいた。
「ただ…三成殿のことを、思い出したのです。夢の中で」
 途端に、力がみなぎるのを感じた。待っていてくれる人がいる。だから立ち上がらなければ。そう思って、幸村は前を見据えた。夢の中、自分はいつだって俯いていて、自信もなかったというのに。
 三成が待っていてくれる。それだけで顔を上げる勇気が生まれた。
「だから私は…その負け戦から抜け出して、三成殿のもとへ走る。そういう、夢でした」
 幸村の言葉に、三成も何か思うところがあったのだろう。何か言いたそうな様子だった。
「三成殿」
「…幸村」
「ありがとうございます」
「え?」
「今回のことがなければ、向き合うことなど出来ませんでした。ただ漫然と必要とされたいと思い続けた私の目を覚ましてくださった」
 幸村の言葉に、三成は酷くいたたまれない様子で身じろぎする。途端に視線も彷徨った。普段はその視線が彷徨うことなどほとんどない。いつだって強い眼差しで、まっすぐに正面を睨んでいる。それが、その感情に関わることとなると、途端に普段らしさは姿を消してしまう。
「…そんな、大層なことなど、していないだろう…俺は」
 しどろもどろ、どうにか言葉を紡げば、あっさりと幸村は否定した。
「そんなことありません」
「…いや、しかし」
「ずっと…目を背けていたのです。私は」
「………」
 雨はまだ降り続いている。湿った空気だった。今年は本当によく雨が降る。いつもはその雨の音を苦く見つめるばかりだったが、今は違った。耳に心地良いと感じるなど、初めてのことかもしれない。小さな頃は、外で遊べないと雨を嫌った。初陣を済ませていざ大きな戦に出れば、負け戦だった。
だから雨は苦手だった。だが、三成は雨が好きだと言っていた。今なら、わかる気がする。
「三成殿の言うことに頷いて…何もわからないままわかっているふりをしながら生きてきたのです」
「………やめろ」
「やめません。言われた時には驚きもしましたが、やはり…今となっては、こうして過去と向き合えるようになったのだとしたら…それはやはり、三成殿がいてくれたからです」
「………」
 静かだった。静かな雨の音に心が落ち着く。何の気負いもなく、言葉を紡ぐことが出来た。今思っていることを、確かに伝えられる。
「はじめてお会いした時に、この人たち…兼続殿や、三成殿を信じよう、と思ったことに間違いはなかった」
「別の意味で裏切られたろうがな…」
「三成殿」
「………」
「まだ、答えは出しません。もっと、ずっと考えます。三成殿に胸を張って、言えるように」
「…幸村」
「この感情が、流された上で生まれたものなのか、それともきちんと、芯の通った答えなのか…それを、見定められたら」
「それは…その、……覚悟しておこう」
「はい」
 三成がこの感情を、口に出して言おうとするまでにはどれほどの葛藤があったのか。短い付き合いとはいえ三成の性格はある程度理解しているつもりだ。強くて鋭い言葉の刃に隠して、素直な心根で、だからこそ他人を褒めることに慣れておらず、またその逆も然りだ。当然のことだ、とそれで済ませる姿をどれほど見てきただろう。三成でなければ出来ないことはたくさんあった。だから今の三成がいる。だが、それを三成は気づいていない。
 気付かせてくれた人だから、気づかせたい。気付いてほしい。
 雨の記憶から、過去の戦から、抜け出す事が出来たのは三成のおかげだ。 三成が、いてくれたからだ。
 あの戦のあと、生きることの虚しさに気づき、出来ることなら戦場で死んでしまいたいと何度も思った。それを隠して隠して、人に知られないように生きてきた。
 だが、今はもう大丈夫だ。何も考えずにただ守ろうとしていた頃とは違う。確かに、幸村が守りたいものがそこにある。
 過去の記憶に囚われずに。
 雨から続く連鎖を断ち切れるように。
 ゆっくりと顔をあげて、太陽を見上げる花のように。
 そしていつか、雨のもたらす恵みにすら気付けるように。



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お題ものです。「雨だれ 十題」より「雨上がりの匂いがした」
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