光のひと




 まただ、と思うと孫市は顔を曇らせた。
 霧が酷く立ち込め始めて、周囲の視界が利かなくなる。
 それは、本能寺以来よくあることで、そういう時に限って自分は何かに追いかけられる。
 畜生、と呟いた。今度は何だ。
 前の時は雑賀の里でよく話をしていた奴らだった。あれらが、腕を伸ばし、深淵を覗きこんだ目で孫市を見ている。
 その前は、秀吉だった。信長様の仇、と武器をかまえて追いかけてくる。獲物を仕留めようとする狩猟者の目だった。
 そしてその前は、信長。死んだはず。殺したはず。背後から心臓に、鉛弾を撃ち込んだ。
 さんざんだった。追いかけられ、息も絶え絶えに逃げまわり、どうにか光を求めて転がりこんだところで死んだように眠った。体が凍えて眠れないこともある。
「………!?」
 霧のむこう。
 聞こえる足音は、孫市の記憶にはっきりと残っているものだった。
「…阿国、ちゃん…」
 ああ、これはやばい。
 そう思ったが、孫市は動けなかった。

 阿国は霧の向こうからゆっくり現れて、孫市に向けて胸の痛くなるような笑顔を浮かべた。大輪の花が綻ぶ瞬間のようだ。
 今まで霧の中に現れた誰よりも、優しい美しい笑顔だ。
「孫市さま、こないなところで」
「…ああ、運命かな?」
 内心、心臓が痛くなるほど緊張していた。いつものような幻なのか、それとも違うのか。見極めが難しい。
「霧が出て視界が利かない。君ほどの人が一人で歩いていては危ないな」
「そうおすか?…ほんなら、孫市さま、ご一緒しておくれやす」
「……勿論、おやすい御用さ」
 疑って見ているから、孫市の目には阿国の笑顔はまるで妖しいものに魅入られたそれのわうに見えた。自分をたぶらかして、いつかこの視界のきかない霧の中、闇に追い込められる。
 背中を、冷たい汗が流れている。
 明らかに緊張していた。そして感じる阿国の気配。速度を緩めて、阿国の歩みにあわせて歩く。阿国はいつもの桜の花の明るい番傘をさして、ゆったりと歩く。
「…孫市さま、恐いお顔や」
「…そう、かな」
「きりっとしてはって、見えないものを見ておいでやね」
 本当に、今回は駄目かもしれない。
 もしこの阿国がいつもの幻だったら、いつもは必死に逃げて、光のある先へ逃げ込むのだけれども、今自分は、阿国の歩みにあわせて歩調を緩め、ひたすら闇に突き進んでいる。ゆったりと、ゆったりと。
 視界の利かない薄白い闇が周囲を取り囲んでいる。
「とって喰われるような、おかお」
「阿国ちゃんにそうされるなら、本望だな」
「もう、てんごいわはって」
 くすくす笑う阿国の白い肌、艶やかな黒髪、こんなにいつも通りの彼女なのに、何かが違う。だけど何が違うかわからない。
 わからないから、孫市はただ諾々とついていく。
 相手はあの阿国だ。常に笑っていて、苦労も多いだろう旅の道のりを笑いながら進む人だ。花のように、笑いながら。
 そんな彼女に、惹かれている。
 その相手に、手をひかれて闇に転がり落ちるなら、それでもいいんじゃないか、とすら思う。
 そうだ。この女に闇へ誘われるなら、もうそれが運命だったのだとしか思えない。なら、もういいんじゃないか。これが自分の運命だ。信長を殺した後の、自分の末期の姿だ。きっと朝になれば、自分はどうということはない道端で、武器を握るでもなくただ死んでいるのだろう。冷えた身体で、この道の先で転がって、眠るように。

「いややわぁ」

 その声に、孫市が顔を上げた。明るい声。一瞬、光がさしたのかと思うような。
「―――え」
「辛気臭いお顔。そないに俯いてたら、いろんなもの、見落としますえ?」
 霧の向こう、しかしよく見るとその霧の向こうから、光が差し込んでいる。どういうことだ、と目を細めて睨めば、そこにいたのは阿国で。
 光が、彼女の後ろからさしていて、まるで光を纏っているようだった。
「お顔上げて、前をまっすぐ見て、そしたら、何が見えます?」
「…え、阿国、ちゃんが」
「いややわ、おじょうずなんやから。騙されたい思うてしまうわ」
「…いや、ほんとに」
 さっきまで自分を闇へ導こうとしていて、横を連れ立っていた阿国は消えていた。あれはなんだったのか。あれもやはり、自分が作り出した魑魅魍魎のようなものか。それを。
 いつもは、自分はそれらから必死に逃げた。
 だけど彼女は、そこに突然ぽろりと現れて、微笑んで、当たり前のように囁いて、顔を上げさせる。光は自分の頭上より高くから降り注ぐ。わかっていたけれど、忘れていたことだ。
 信長を殺してからずっと、闇に足をひかれ、袖をひかれ、生きてきた。

―――うぬは何を望む?

 今なら言える。ちゃんと、わかっている。
「阿国ちゃん」
「?」
「やっぱり、君は俺の女神だ」
 ほら、だってこっちへおいでって光を携えて教えてくれる。
 今一番、ほしいもの、だ。