死に至る




 まったく自覚のなかった事だが、自分が特定の一人を呼ぶ声が甘いと知ったのはつい最近のことだった。その名を呼ぶ時は大概、優しい気持ちになっている。
 正則に幸村ばっかり贔屓しやがってと言われて気がついた。驚いた顔をしていたのだろう。清正から知らなかったのか、と逆に驚かれてさらに驚いた。あの二人にまでばれているとはどういうことだ。
「…幸村」
 試しに誰もいないのを確認してぽつりと呼んでみる。もちろん返事はない。あったら困る。そしてふと、その名を呼ぶだけで心のうちがふわりと浮上するような錯覚を受けた。ふわふわ、ふわふわ。どこか不思議に、楽しい気分になるような。優しい気持ちになるような。
 何の変哲もない名前なのにな、と思う。
 名前などその人間を特定するためのものだ。それ以上でも以下でもない。他人には感じないことだ。幸村の名を呼ぶ時だけ、ふわっと優しい気持ちになる。甘い気持ちになる。口許がほころぶのがわかる。
 こんなうわついた感情、自覚したくなかったが、それでも気がつけばどうにもこうにも、訂正出来ないところまで行きついていたのだから仕方がない。
 なら何かあった時、いつでもその名を呼んでいようか。そうすれば、兼続たちから眉間の皺が酷いとか言われ続けることもなくなるかもしれない。
 考えて、思わず一人で笑った。いくらなんでもそれはどうだろうか。他人の名前を精神安定のかわりに使うというのは。
(それでも、あの名に力があるのは、…確かだ)
 優しい気持ちになる。甘い気持ちになる。思わず口許がほころぶ。言われてみればあまりにわかりやすい特徴。
 他人が気がつくくらいならば、幸村自身はもしかしたら気がついているだろうか。
 ふと考えて怖くなった。幸村はいつもぴんと伸びた背筋に、まっすぐな瞳を持っている。間違っても、知られていないと思う。だが。
「………」
 知られて拒絶されたら自分はどうなるのだろうか。ふと怖くなる。他人に嫌われるのは慣れっこだが、だからといって胸が痛まないわけではないのだ。
 それが、自分がこれだけ好意を寄せている相手だったとしたら、どうだろう。
 きっともう、名前すら呼べなくなる。
 ぞっとした。思わず身震いした。あの真っ直ぐな視線が自分から逸らされて、なかった事にされる瞬間。それを思うと恐ろしい。
「幸村…」
 あの幸村がそんなあからさまな態度などとるものか。しかし腫れものに触るような扱いを受けたらもっと辛い。そんなことを考えて、三成は延々と俯いていた。そうしていた時だ。

「三成殿!」

 声がかかった途端、襖が勢いよく開かれた。
 思わず声もなく驚いていれば、幸村が無礼も顧みずに部屋へあがりこみ、三成のもとに滑り込むように座った。
「…、ど、どうした」
「病気とお聞きしました!」
「…え?」
「このように起きていて大丈夫なのですか」
「…その、すまん。俺は別に…元気だが」
「……本当ですか?」
「あ、あぁ」
 幸村の調子に驚いていれば、幸村はじっとこちらを見つめてきた。それからその手が、三成の額に無造作に触れる。触れられる瞬間、不自然に身体が緊張した。意識し出すとこれだからたまらない。気付かれていないか。おそるおそる幸村を見つめてみれば、幸村は難しい顔をしていた。
「……熱はないようですね」
 その真剣な様子に、三成は誰からそんな話を吹き込まれたのか気になった。予想は出来たけれど。
「…誰から聞いた?」
「は、はい。清正殿からですが…」
「……あの馬鹿が」
 吐き捨てるように呟いた。清正は先のやりとりでとっくに気づいていたのだろう。三成の感情。そしてそれを病だと言った。まぁ確かに、不治の病というやつだけれども。
 そしてそれを真に受けて、幸村がここまで慌ててきたというわけだ。
「幸村」
「はい」
 意を決して、三成は口を開いた。
「…俺の声は、どう聞こえる?」
「…は、声、ですか…?」
 幸村は首を傾げている。それはそうだろう。首を傾げたままの幸村に、三成は頷く。
「あぁ」
「…、良い声だと思いますが」
「そうか」
「はい」
 あまりに普通にこたえられて、逆に三成はぎゅっと胸が痛んだ。
「…呼ばれるのは、不快ではないか」
 そう問えば、途端に幸村は眉間に皺を寄せた。予想外のことを言われた、という顔をしている。心外だ、という様子で訴えかけてくる。相変わらずの、まっすぐな瞳で。
「何を言われるのですか三成殿。不快なわけがありません」
「……あぁ、そうか」
「はい」
「……」
 それ以上、どうすればいいかわからずにいれば、そんな三成の感情を読み取ったのか、幸村が口を開いた。
「安心します」
「え?」
「呼ばれると、安心します」
「…そ、そうか」
「はい」
「…ならば、今度からもっと…その」
 呼んでいいのか?しかし言葉に出来ずにいれば、三成の言葉をさらうように幸村が頷く。
「そうですね、呼んで下さい」
 あんまり爽やかに言い放つものだから、三成はついおかしくなって肩を震わせて笑った。ああ、本当に。
「…ふ、くく…おまえ、幸村…」
「は、はい?」
「後悔するなよ」
「はは、しませんよ」
「おまえは、俺にとっても安心できる。…呼ぶだけで、ほっとする。だから、俺の機嫌が悪ければいつでも呼ぶぞ」
「三成殿のお役に立てるならいつでも」
「…戻れなくなるぞ、上田に」
「え?」
「な、なんでもない」
 機嫌の良い日なんて数えるくらいしかない自分にとって、機嫌が悪ければ呼ぶ、とはすなわちそういうことだ。絶対に上田になんて戻してやらない。そう考えて、自分の独占欲の強さに驚く。いや、思えば小さな頃からそうだったかもしれない。自分の懐に入れてしまった者に対しては特に。そして、幸村はいまや誰よりも奥深くに入り込んでいるのだ。
「…幸村」
「は、はい」
 だからこそつくづく、心の底から思うのは。

「…俺にはおまえが必要だ、幸村」

 幸村が一瞬驚いて、そして笑う。眩しいとすら感じて、三成も笑った。いや、もともと笑っていたかもしれない。幸村の名を呼ぶたびに、自分はいつだってふわふわと暖かい気持ちになって、優しい気持ちになって、甘い感情に真綿で絞められるような気分になる。
 病気と言ったであろう清正に、三成はつくづくその通りだと苦く苦く思った。
 自分にとってこの感情は、どうやったって薬ではない。病気だ。自分を蝕む何かだ。自分の中に、幸村が占める部分が増えるばかりで消えていかない。

 いつか息だって出来なくなる日が来るかもしれない。
 これはきっとそんな感情なのだ。




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