幸村が清正との手合わせで怪我をしたという話に、宗茂は面白そうに微笑んだ。
あの二人が手合わせをする事が多くなったのはいつくらいだったか。ただ、断然清正が勝てなくなっている、と聞いた。そしてさっき、宗茂はその話を清正としたばかりだった。
最近勝てないそうだな、と笑ってみれば清正はむっとした様子で視線をそらした。
「どうして勝てないのか、理由はわかっているのか?」
「…次は勝つ」
そう言った清正にはそれでもまだ迷いがあるように感じられた。最近の清正は特に幸村を相手にするといつも何かを迷って、判断が鈍る。宗茂はよく二人の手合わせを観戦していて、清正が勝てない理由も実のところは知っていた。
幸村と清正は二人とも同じ得物を使う。そして二人とも強い。だが二人の強さは質が違っていて、幸村は常では清正に勝てない。清正の強さは安定感があるから、普通ならばそう簡単に負けないのだ。それがここのところずっと勝てないというのだから、それは間違いなく清正の精神的な問題に違いない。
清正は気付くかな、と宗茂は首を傾げた。
「…すまん」
手当てを終えた幸村に、清正が頭を下げた。いっそ土下座しそうな勢いだ。さすがに幸村も慌てた。怪我といっても、切っ先が額を少し掠めた程度だ。頭だから血がたくさん出た、というそれだけの話で。
「私の不注意ですよ。見極めが甘かったのです」
「…いや、違う。俺が悪い。むきになった」
清正はどうやら恐ろしく自己嫌悪に陥っているようだった。声に覇気がない。幸村の額を覆うのはいつもの鉢金ではなく、傷を覆う包帯だ。やってしまった直後は、倒れこんだ幸村の額から血が止まらなかった。額を手で庇うようにしている幸村の手に血がついたのを見た時は、心底肝が冷えた。
血がどうこうという話ではない。自分のせいで幸村に怪我を負わせた、というその事実に、血の気がひいた。
「この程度、怪我のうちにも入りませんよ」
幸村はそう言って笑う。確かにやってしまった時の幸村の反応は淡泊だった。くのいちが飛び込んでこないところを見ると騒ぐほどの怪我ではないのかもしれない。だがどうしても、清正の罪悪感が消えない。
「…悪い」
「清正殿、どうか顔をあげてください」
俯いたきり顔をあげない清正に向けられている視線。幸村のまっすぐな眼差しを後頭部のあたりに感じる。
「避けられなかったのは私に精進が足りぬからです。清正殿の強さはよくわかっていたつもりだったのに、ここのところ勝たせていただく事が多かったので、油断をしたのです」
「…いや、悪い。おまえに言い訳させるつもりじゃない。これは俺が悪い。謝らせてくれ」
幸村があれこれと言うのを聞いて、清正はようやく顔をあげた。自分が今どんなに情けない顔をしているか、想像すると恐ろしい。出来れば誰にも見られたくなかったが、これ以上俯いていて幸村に謝らせたくはなかった。
「すまなかった」
清正がそう言ってもう一度頭を下げる。幸村は困っているようだった。
だが清正にとってはどうしても謝らなければならない事だった。たとえそれを謝りすぎだと幸村が感じても。
最近、幸村にずっと勝てなかった。最初のうちは五分五分だった。負ける日もあれば勝つ日もある。お互いの強さはそれぞれよく知っている。幸村は戦となるとその強さが際立つが、こうした手合わせの時は自然に手加減してくる。最初のうちは手加減と感じていたそれも、今にして思えばそれが幸村の中での区別である事も理解出来た。たぶん命を賭けるような場面にならなければ本当の力は出ないのだ。だが清正は戦場での幸村を知っているから、あの苛烈さをどうしても手合わせに求める。だが手合わせに命の危険は関わらない。だからどうしても、幸村の中の何かが本気にならない。
「…痛みはないのか」
それを知ってもなお手合わせの勝敗は五分五分だった。幸村と清正は結局同じくらいの強さで、それは結果的に戦で敵として幸村と戦えば勝てない、という意味なのだ。
はじめはそれが悔しかった。どうにかして勝ちたいという思いがあって、幸村の癖を見抜こうと何度も手合わせをした。そのうち癖もわかるようになって勝つことが多くなっていた。
「はい、大丈夫です。手当てして頂きましたから」
ある時に正則と話していて、正則が幸村に勝てない、と騒いだ。
その時、ついぽろりと幸村の癖を話した。幸村は切り返してくる時にこうするから、と。そう言った時、正則がただただ感動したように言ったのだ。
――すっげぇな清正!よく見てんなー俺全然わかんなかったぜ!
よく見てる、と言われた事に頭を殴られたような衝撃を受けた。
いや、実際そういう意味ではよく見ていたし、別段後ろ暗いところなんて一つもない。はずだ。なのに、どうして。
どうして、そう言われた時あんなに動揺したのか。
その後それについて延々と考えた。考えれば考えるほどわからなかった。ただ、はっきりしていたのは、とにかくそのせいで幸村に負け続けた。切り返しの癖も、幸村の呼吸の際も、掴めている。なのに負ける。それの繰り返し。
「…しばらく、手合わせはやめておく」
むきになった。むきになって、いつもより手加減も何も出来なかった。幸村は強い。迷っていては勝てない。わかっている。だからこそむきになって、そして怪我をさせた。
幸村自身が言うように、怪我については大したことはないのだ。頭だから血が多く出た。それもわかる。だがその幸村を見ていて、清正の中で何かが破裂したような感覚で、理解出来た事がある。
「怪我が治りましたら、その時はまたお相手して下さいますか?」
幸村の言葉に、清正は頷くともなくただ笑った。
大阪の陣での幸村は強かった。幸村の隊が真田丸に進発したのを見て不安を覚えてついていったが、その時にそんな心配の必要がないくらい強いと理解した。
あの苦難を乗り越えて、城の改修も終わりが見えてきている今、ようやく、本当にようやくわかったのだから、何もかも遅すぎる。
「…俺はどうも、大切なことに気付くのが遅い」
ぽつりと呟いた。幸村は首を傾げている。意味のわからない言葉だろうが、それ以上は何も言わなかった。
もっと早く気付いていればよかったな、と思いながら。
じんわりと苦く、幸村の額を見つめていた。
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