FLYING THREE 5




 左近がふと背後に気配を感じたのは、一人で物資の確認をしている時のことだった。兵糧がどうの、という確認は本来左近の仕事ではなかったが、この時は気になる事があって兵糧庫に来ていた。ここにいる事は、左近以外では三成しか知らない。
 だからこそ殿か、と気にせずにいたが、その気配は何かこちらの様子を窺っているようで、だからといって殺気というのとも違う気配に、左近はむず痒いような、変な感覚を覚えた。
 それに、昔この感覚を味わった気がする。
 いつだった、と遠い記憶を呼び起こせば、それは武田時代まで遡った。
 武田信玄に師事していた頃、左近は何かといえば信玄に呼び出されてあれこれと謎かけされたものだった。単純にそれが信玄の普段の喋り方なのだと気付くのにもそこそこ時間がかかり、気がつけば気がついたで、そのしょうもない発言に脱力し、だがそんな言葉の端々に意味があると気付いた時の高揚感といったら筆舌に尽くし難く。
 そんな日々を過ごしていた左近は、ある日から唐突に子供たちの標的になった。それこそ筆舌に尽くし難い波乱の始まりだった。
 正確に言えば、それは真田昌幸の次男坊である真田幸村と、その忍びであるくのいちが原因だった。二人は兄と妹のようでもあったが、友達のようでもあり、二人は一日を館のいたるところで遊び尽くしていた。
 信玄も止めないから、子供たちの遊びは日に日に過激になっていく。
 それを叱られた二人は、信玄から言い渡されて、左近の髪留めを奪うことが出来たら、許してあげるよう、とか何とか。
 それ以来、二人の標的は完全に左近一人に絞られた。他の者からは絶賛された信玄の策だったが、その被害を完全に一人でひっかぶる事になった左近はといえば、この世にこれ以上の絶望があるか!?というくらいの激動の日々を過ごすことになった。
「し、信玄公…あんたって人は…!」
 子供二人に殴られ蹴られ、仕事を邪魔され安眠さえ出来ない状況に追い込まれて、はじめて左近は信玄のところへ苦情の申し立てに行った。目の下には盛大なくまを作っており、見事なまでにやつれ気味だ。
 信玄はといえば、一人で酒を飲んでいたらしい。いつも陽気な信玄が今日はまた格別に機嫌が良い様子だった。それすら、左近には恨めしい。
 やや不貞腐れ気味に信玄から盃をもらい受けて、酒を煽ると、その横にどっかりと腰を落ち着かせた。腹に据えかねる。が、信玄はどこ吹く風だ。
「いやぁ、子供は元気が一番じゃしのぅ、左近は若いんだから、相手してやるといいよぅ?」
「…いや、あの二人、本気で狙ってくるんですよ。それこそ、寝てるところや仕事してるところまで!」
「幸村は猪突猛進、くのいちは変幻自在。左近もいい修行じゃないかね」
「……修行、…修行ってアンタね…」
 幸村はあの真田昌幸の息子である。猪突猛進なのだが、むやみやたらと罠を用いてくるのも幸村だ。そしてくのいちは、女の子という事を差し引いても、身軽すぎるほど身軽なその身体能力で幸村との差を埋めている。正直、心が休まらない。これが修行だと言うならば、一体その結果何が得られるというのか。
「そうじゃ。軍師たる者、いつ如何なる時でも心を平静に保たねばならん。そうじゃろう?」
「そ、そりゃそうですがね…。怪我させちまいますよ」
「小さい生き物はのぅ、少し血が出ても大騒ぎなんじゃよ。左近、知っておったかのう?」
「知ってますよ!」
 そう、知っている。というか先ほど少し怪我をさせてしまったところだった。幸村は思い切りよく後ろにすっ転び、くのいちは木の上から現れたところ、こちらが避けてしまったので地面から落ちている。
「しかも武士の子じゃから、幸村は泣かんぞぅ」
「くのいちは泣きますよ」
 甲高い声でわんわん泣かれて、それはもう左近も往生したものだ。周囲はあらあらといった様子で手を貸そうとしないし、あろうことか真田昌幸は笑っている。しかもこの反応、信玄がその場にいてもたぶん昌幸と共に笑っていたに違いない。
「そりゃあそうじゃ。それが武器になるのも知っておるからの」
「ええ、すまんと謝ったらじゃあお礼に髪留めくれって襲いかかられました!」
「ほっほっほっ。あっぱれあっぱれ」
 一筋縄にいかなすぎる。
 幸村は後ろにすっ転び、頭を抱えてうずくまって動けずにいた。あまりに長い間そうしていたから、左近も気になって起こしてやろうと屈んでやれば、恐ろしい身体能力で起きあがり、髪を狙われた。髪を、というか、髪留めを、なのだが、あの時の幸村は髪もろともいってしまえという気合が感じられて、正直首がとられる瞬間ってこんな感じか、とすら思うほどの恐怖を感じたものだった。
 怖い。子供って本当に怖い!
 その上、それですっかり疲れ果てていれば、今度はくのいちが現れた。木の上でこちらの様子を窺っていたらしいくのいちは、今度は左近より高い位置から髪留めを狙うことにしたらしい。視点を変えて挑むのは良い判断だ、とかなんとか、そんなことを言っていられるのは当事者以外の人間で、左近はといえば殺気に近い気配に、本気でくのいちが落ちてくるのを避けた。
 実のところ、この髪留め事件が起こる前からよくくのいちには飛びかかられていたが、子供のやることだし、と避けたことは一度もなかった。だからこの時も、くのいちは左近が避けないものだと思い込んでいたようで。
―――要するに、受けとめてくれる人のいないまま、顔面から落下した。
 顔中すりむいて、泥まみれになりながら、くのいちはそれこそ大声で泣いた。さすがに左近も無視できない音量での号泣で、すまんとか何とか、介抱してやろうとした。が、ここでもまた子供の恐ろしさを垣間見た。くのいちは泣きながら左近に抱きついてきて、ああ可愛いもんだな、可哀想なことをしたなと殊勝に感じた彼に対して、泣きながら訴えてきたのである。
 泣きやんでほしかったら髪留めをくれ、と。
 正直心が冷えた。どん底まで冷えた。それはあんまりひどいだろう。いくら忍びとはいえ、まだ年端もいかない年齢だ。幸村と同じでまだ任務の一つもこなしていないくらいだ。にも関わらず、根の部分に染み付いた、忍びの根性と言おうか。女の忍びなのだから、まぁその身体を武器にすることだってある。今後そうなってしまう彼女を見るのはしのびないとは思う。が、なんだかそうなっても納得できてしまいそうなしたたかさだった。
「ですから…」
 もうやめさせて下さい、と左近は訴えた。が、信玄はついにうんとは言わず、左近が武田を出るまで、それらは続いたのだった。

 で、今だ。
 そんな過去の暗い思い出が、左近の記憶に鮮やかによみがえったわけだ。
 となったら、そこにいるのが誰なのか。どっちなのか。なんだかもう、考えずともわかった。
 気配が動いた、と気付いた瞬間。
 左近は身を翻して、背後の気配の腕をとった。
「……っ!」
「…やっぱりか」
 はぁ、とため息をついた左近に腕をとられていたのは、昔後ろからすっ転び、いつまでも起きあがらなかった子供と同一人物だった。
「幸村…おまえなぁ」
「左近殿、お久しぶりです」
 悪戯がばれた子供のような表情で、幸村が笑う。子供の頃の彼が思い出されて、懐かしさと共に何だか緊張感すら感じた。
「お久しぶり、ってな。ならもっと普通に言ってほしいんだがね、俺は」
「申し訳ありません。こちらに来た際に、お見かけしたら懐かしくて」
 相変わらず腕をとられたままの状態で、幸村が苦笑する。大人になった。ずいぶん、優しく笑うようになったし、逞しくもなった。赤備えの似合う、立派なもののふだ。が、やってることはあの頃と同じだ。
「俺はあの日、子供は恐いと思い知らされたな」
「あはは。そうだったんですか?左近殿、それでも全然髪留めに触らせてくれなかったじゃないですか」
「あれは修行だったんでな」
「修行」
「信玄公がそう言ってたんだよ。俺は寝る間も惜しんで髪留め奪いに来るおまえらに、夜這いを宣言されたお姫様みたいな心地で過ごしたもんだが」
「大袈裟ですよ、左近殿」
「いいや、あの頃のおまえらの気迫といったら…」
 思い出しては身震いする。あの時の子供二人の表情といったら、本当に可愛いくせにこれでもかと狩猟者のそれだった。子供は熱中できる遊びが見つかれば、皆そうなのかもしれないが、その標的になった左近はいまだにあのくらいの子供を見ていると、なんだか遠巻きにしたくてしょうがなくなる。
「ところで幸村。もう俺の髪留めを狙う必要はないよな」
「そうですね」
「でも狙うんだろう?」
「そうかもしれませんね」
「なら、俺も策を講じる」
「策?」
「もう手加減が必要な子供じゃないからな。きっちり痛い目、見てもらうぜ?」
 左近はにやりと笑うと、幸村の腕を掴む手のひらに力を込めた。しかし幸村は痛いとは言わない。
 正面からぶつかりあう視線は、まっすぐで揺らがない。
 あの小さかった子供は、すっかり大きくなった。子供の数年と大人の数年は、身体的に大きく異なる。精神的にも。
「あんまりおふざけが過ぎると、火傷するからな?」
 左近はそう言いながら、顔を近づけた。幸村の視線が一瞬、揺れた。動揺している。至近距離でこんな風に会話をした事があまりないのかもしれない。あの頃の遊び以外で言えば、幸村は真面目な子供だった。信玄の言うことはよく聞くし、父親を尊敬していたし、兄を敬ってもいた。
 だからそれに少しだけ気をよくした左近は、それ以上は何もせず、幸村を解放した。幸村は何も言わない。ほんの少し耳朶が赤いのが見えて、これもまた左近の心をすっとさせた。少しは恐怖なり何なり、感じてほしいものだ。
―――が。
「左近」
「あれ、殿」
 気がつけば、兵糧庫の入口に三成が立っていた。逆光でよくわからないが、その口調からして不機嫌なのが見てとれた。もともと薄暗くて涼しい兵糧庫の中で、すぅっと温度が下がったような気がする。
「ずいぶん幸村と仲が良いようだな」
「え、まぁ、その、武田の頃に多少」
「火傷がどうとか聞こえたが?」
「あれはまぁ、もののたとえでして…」
 ふと、嫌な予感がした。
 何でこんなに言い訳がましいことを言っているのだろう。そう思う左近の横で、幸村は相変わらず無言だ。そんな幸村に、三成が歩み寄る。
 そういえば、三成は兼続と幸村を友だと言っていた。この人がそうやって自分の口で他人を「友」だと言うのは珍しく、また特に幸村についてはべた褒めで。
「大丈夫か、幸村」
「ええ、三成殿」
「左近に何かされたら俺に言え」
「いいえ、三成殿にご心配をかけるようなことは…」
「遠慮するな」
「ありがとうございます」
 左近の隣で、二人の会話が進んでいく。何だろう。何かが物凄い違和感だ。何だかこの感覚、あの時に似ていないか。
幸村が、後ろにすっ転んで立ちあがらなかった時と。
「ただ、三成殿」
 何かある、何かある、とわかっているのにどうしようもなくて、自ら近寄ってみるしかない、あの時と。
「なんだ?」
 そして幸村が、言う。
「ただ、私はお館様…信玄公のご存命の頃から、左近殿の髪留めが欲しかったのです」
「ほぅ、あんなものをか?」
「はい」
「…ならば最初から俺に言えばいいものを」
「いえ、三成殿のお手を煩わせては…」
「馬鹿なことを。何も煩わしいことなどない。なぁ左近」
「………殿」
「左近!」
「殿ぉぉぉぉ!!」
 思わず兵糧庫で絶叫し、今度こそ左近はその場を逃げだそうとした。が、三成に行く手を阻まれてどうにもならない。ただでさえ狭い兵糧庫の中だ。もともと逃げる場所などないのだ。そんな左近の正面、そして三成からの死角の位置で、幸村が小さく微笑んだ。
 そして、小さな声で。三成の声にかき消されるくらいの声で。

―――だが、左近にははっきり聞こえた。
「真田の戦、お見せしましょう」
 その後再び、兵糧庫で左近の悲鳴が轟いた。




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このシリーズ、無双3フライングネタとして書いているんですが、そこから派生している話なのでこのタイトルで。4の実質続き、というか、前の話、です。
続きは考えてなかったのですが、某さんの言葉で書いてみました。ちょっとおそるべき子供たち(笑)を書くのが楽しかった!

イラストいただきました!「夢海月」の藍月さまからです!おそるべきこどもたちに襲撃を受ける左近(笑)
タッグ組まれて寝込みを襲われたら、そりゃあもう号泣ものですよね。本気になっちゃうよね!!幸村もくのいちも、マジで狙ってる感がたまりません。そして左近が後ろ姿だってのに本能寺ののぶさまのようにも見えます。頑張れ左近負けるな左近!(笑)
藍月さん、ありがとうございましたー!