FLYING THREE 4




「どぅもぉ〜」
 緊張感のかけらもない様子で木の上から現れたのはくのいちだった。左近は、木の枝にぶら下がったままで器用に手を振る少女に肩を竦める。知った顔だった。
「おいおい、幸村が怒るぜ」
「怒りませんよぅ。馴れてますもん」
 くのいちは、一時期まで武田信玄のところにいた忍びだ。年齢が近いからといって幸村と引き合わせた信玄だったが、おかげさまで幸村が妙な方向で耐性のある奴になった。若い身体は瑞々しくて、しかし健康的だ。健全に育っているなとは思うが、それを武器にしてやりたい放題。その点において、馴れていない者は大騒ぎである。たとえば、石田三成とか。
「おまえ、最近殿のところに出ただろう」
「え〜ばれちゃいましたかぁ?」
「幸村からの書状を、殿が湯に浸かっている時を選んで届けなくてもいいだろうが」
 数日前、風呂にいた三成のところに、くのいちが現れた。何も身につけていないような状態で、しかもくのいちが現れたとあってはそれはそれは三成の不興を買ったのだったが、それよりも不興を買ったのには別の理由がある。
「いやぁ〜落ち着いたところで見てほしかったんですよぅ」
「濡れちまって読めなかったらしいがな…」
 無論少し考えればわかることだ。だが、その時ちらつかせた幸村の書状は、いかにも政務に絡んだことではなさそうだったのだという。取り逃がした獲物は大きい理論で三成が嘆いている気がして仕方がなかったが、万が一急を要する内容だった時にそれではとても困る。三成が怒るのもわかろうというものだ。落ち込んでいることについてはあんまり考えたくないが。
「あっははは!だってどうしますかって言ったら寄越せって言うんですもん。ちょっと考えればわかるのにぃ」
「殿は幸村の事になるとちょっと頭の回転数が落ちるんだ。知ってるだろ」
「知ってますよ。だ・か・ら!顔だけ男って言ってんですから」
 三成とくのいちは初めて逢った時からとことん反りが合わないでいる。これでも兼続とくのいちはそこそこうまくやっているように見えるだけに、この険悪さはなかなか深刻だ。本人いわく兼続ともさしてうまくやっていないらしいが。
「気に食わないんだろ」
「え〜?そんなことないですよぅ〜?」
「おまえなぁ…」
「気に食わないって言ったらァ、左近サマの方が信じられないって言うかぁ」
 唐突にくのいちが話題を変えた。木の上からようやく降りて、途端に左近へしなだれかかる。細い身体は体重をかけられても驚くほど軽かった。
「俺?」
「ずーいぶん髪短くしたんですねぇ」
「そりゃ長かった頃におまえに引っ張られたからだ!」
 そう。信玄のもとで師事していた頃、幼かった幸村とくのいちは、一日何回左近の不意をついてあの髪を引っ張ることが出来るかで競争していた。
 まぁ毎日毎日手をかえ品をかえ、二人は左近の前に現れて、もみくちゃにされたものだった。
「ええ〜。あんな綺麗な御髪でしたのに…」
「おいおい…」
「って、稲ちんが言ってた」
「………」
―――途端に、過去の懐かしい思い出たちが吹っ飛んだ。思わず左近が絶妙な顔をしていると、くのいちが周囲を気にせず大声で笑いだす。
「あっはっはっはっはっ!!何その顔何その顔!!かっわいぃ〜!こりゃ稲ちんに教えてあげなきゃな!」
「待て待て待て待て」
「うーん、じゃ豊臣の情報で手、うちますよぅ?」
―――あぁ。
 そういうことか、と理解しながら、それでも左近はやれやれと肩を落とした。稲に関しては、左近はとことん弄られる運命だ。何で稲と親友がくのいちで、稲は幸村の兄の嫁なのか。しかもその人を、一度だけとはいえ間近で見てしまった時の自分の胸の高鳴りといったら若造かと叫びたくなるようなものだった。
 そしてそんな感情を、よりによってくのいちに知られた悲劇といったら。
「……あのな」
「はい毎度!」
「……関ヶ原は厳しいだろうよ」
「でしょうね!顔だけ男が大将ですもんね!」
「真田の援軍はあるのか?」
 関ヶ原は厳しい。それは左近がひっそりと計算して得た結論だ。兼続が家康に書状を叩きつけた。その無礼極まりない内容に、家康が動く。まぁこれがうまくいったら良いとも思うが、あの男はこの乱世を、ひたすら生き抜いてきた男だ。若者二人の策に、そう簡単にのってくれるとは到底思えない。申し訳ないが、それこそ数の力で押すしかなく、数の力とは僅かな和の乱れがあるともう手の打ちようがなくなってしまう。それらを考えて、はたしてうまくいくのか。普段から数の力へ否定的な三成のことだ。うまくいかない気がしてならない。
「さぁ、どうですかね。あぁ、でもねぇ、伝えなきゃいけないしぃ」
「ん?」
「稲ちんにね」
「…あぁ」
「だからな〜何としても逢いにいかなきゃな〜。幸村様のお尻でも引っぱたいて義姉上様におつたえしてもらわなきゃ〜」
「幸村からかよ…」
「期待しててよ」
 そう言うと、くのいちがこちらへ目くばせしてきた。
 くのいちは、ずいぶんいい女になった。主の考えることも、きちんと理解して動いている。彼女は決して幸村を裏切らない。それがいい女でなくてなんだと言うのか。そして幸村も、ずいぶん頼もしい男になった。三成が目をかけて、兼続が弟のようだと言って接する彼の槍の力は、左近も存分に知るところだ。
「あぁ、頼む」
 だから、左近はそう言った。
 くのいちは手を振って、途端に姿をくらました。頭上の木陰からさわさわと木々の揺れる音がして、気配が消える。
 空には月が、綺麗にのぼっていた。



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