俺は幸村のことが好きだ、と聞いた時、左近の感情が一瞬、波立った。 左近はそれを悟られないように盃をあおる。 さてどういう反応をするべきか、とその僅かの間に悩んで、適当に茶化すことに決めた。なんといっても今この場は主従二人きりの酒宴である。 「殿、酒がまわるには早いんじゃないですか」 そう言ってやれば、三成の性格だ。もし本気なのだとしても、曖昧にして終わらせるのではないかと思ったのだ。いくら酒の力があったとしても。 「…本気だ」 「…それはそれは」 しかし何故今この時にそんなことを言い出すのか。何をどう思ってこの瞬間を選んだのか。左近にはわからず、三成からの次の言葉を待った。 「………」 しかし三成は次の言を継げず、酒をあおるだけだった。 このままでは何か聞き出す前につぶれてしまう。 「どうしてそう思ったんです?」 幸村は男だ。三成も男だ。そんなことはわかりきったことだ。別段男色など珍しくもないが、三成に限ってはそういうものと縁遠い世界にいるように感じていた。 「…知らん」 「知らないってことはないでしょう。物事には理由ってものがあるんですから」 特に三成のような男が、誰か一人を特別と想うことは『知らない』で通せるものではない。 「知るものか。気づいたら目で追っていたのだ。気がついたら、いつも考えていた」 そう言う三成の表情はどこか苦しそうだ。 普段人を人とも思わないこの男は、その分不器用で他人を傷つけることならば朝飯前でも、誰かを大切にしようとすると途端に途方に暮れる。 今までは他人を傷つけていることに対して、無自覚だっただろう。 だが幸村を特別と思うようになり、大切にしたいと思うようになってからは、己の言葉の一つ一つに返礼を受けてすっかり沈みがちになった。 たとえば幸村の表情が僅かにでも曇れば、もうそれだけで三成にとって後悔が始まる。 そうやって、どれだけ押し殺してきたのかは知らないが。 とにかく限界は近そうに感じられた。 「幸村を好いているっていったってね、奴は男ですし。本気ですか?殿」 左近の言う意味は、すなわち抱けるのか、ということだった。 その問いに、三成がまた酒をあおる。 つぶれるのが先かそれとも。 「本気、だ」 言われて、左近の脳裏にふと幸村と三成が並んだ。体格で言えば明らかに幸村の方が大きい。その彼が、三成に組み敷かれている様を想像すると、一種滑稽なようで、せりあがってくるように笑いがこみ上げてきた。 「何がおかしい」 「いや、すいません。抵抗されなきゃいいですね」 「…ど、同意の上でなければ何もせん…」 「そりゃまた、気の長いことで」 実際、三成が幸村に特別な感情を傾けていることは、左近はなんとなく知っていた。おそらくは周囲にいる人間も皆、ある程度周知の事実のはずだった。 自分ではどう思っているか知らないが、三成の態度は露骨だ。 露骨なくせに、いざとなると思っていることを伝えられない。不器用すぎて、三成の一番近くにいる左近などはついからかってしまいたくなるのだけれど。 それにしても。 (おかしいな) 三成から幸村が好きだと言われた時、一瞬波立った感情があった。左近にとって、その言葉がどんな意味を持っていたのか。 ふと目の前の、無駄に整った顔立ちの男を見つめる。 目鼻立ちのはっきりとした顔だ。整いすぎていて人形のようでもある。どことなく、血の気が通っていないようで、それが彼を遠巻きにする人が多い一因でもある。 綺麗な顔だとは思うが、別段特別な感情があるわけではない。 無論、破格の禄をもらっていることに対する感謝の念はある。それだけの働きを返さねばならないと。 しかし、あの一言で波立つような感情は、己の心の中、どこを探っても特にないように感じた。 ならば幸村か。 左近は僅かな時間を武田にいた。その頃から幸村のことは知っている。 あの頃は、いつも信玄公の後ろをくっついて歩いていて、いつも楽しそうにしていた。信じるものがあり、それを絶対だと思っていた頃だ。 まだ年若い頃の話だ。信玄が病に倒れ、上洛も果たせぬまま、武田は勝頼の手に渡った。しかしそれは、良い方向に傾くことはなかった。 (あの時) 信玄は死の間際、唐突に遊びのようなことを始めた。東方の武将を集めて西と戦おうとしたのだ。西、というよりも、織田軍、といった方が正しいか。 あの頃は確かに、織田の力は強大だった。 思えば、己の死期が近いことを悟っていたからこその行動だったのかもしれない。息子に、何もかもを委ねる前に、強大すぎる敵を排除しようとしたのかもしれない。もちろんその信玄の目論見はうまくいくことはなかった。 (俺が、もしも薬を) そうして信玄が表立って東方の武将を集めている頃、左近は東奔西走していた。 信玄の病を、左近は知っていた。 だからこそ、探していたのだ。 薬を。少しでも、永らえるための薬を。 しかし結局見つけることは出来なかった。 左近が戻るよりも早く、信玄の病は隠しきれるものではなくなった。無理な上洛は中断され、気がつけばあっという間、彼は死んだ。 (間に合っていたら、今ここに俺も、幸村も、いなかった) もしも、信玄が生きていて。 もしも、上洛が果たせたのならば。 だから左近は、人の生き死にに関わるのにうんざりして隠居していたのだ。乱世だろうと知ったことではない。主家の不義に対して怒ったのも確かではある。だが。 本当は、関わるのがもう嫌だったのだ。 (そうしたら、幸村は…あんなに変わらなかったかもしれない) 信玄の死に直面し、武田は急速に滅亡への道を歩んだ。 幸村はそれに従った。そして、長篠の地での修羅場に、本当に何もかもを失った。 武田の旗が地に落ち、踏みにじられ、仲間たちが倒れ伏す。泥に顔をつけ、息絶えた人々の。 無念や怨念の中に浸かって。 そうして、ふと気がついた。 (だから、か) 感情が波立った理由。 変わってしまった幸村に対して、聞きたいことがあったからかもしれない。 今までどれだけ苦しかったのか。どれだけ辛かったのか。あの武田の頃をどう思うのか。 知っているから、気になる。知っているから、聞けない。だから、わだかまる。 「…殿、大丈夫ですか」 「……幸村…」 気がつけば、三成はすっかりつぶれていた。独り言で幸村と呟いてしまうほど。聞かれたらどうするつもりなのだか、と左近は肩を竦めた。 でも。 「…うらやましい、ことですな」 知っているから触れられない。抉る傷はきっと、誰よりも深く残るだろう。 だから左近の、この微妙な感情は誰にも伝えない。知らせない。 あの頃を、幸村が本当に笑えるようになるまで。 そしてそうしてやるのは、おそらくは自分ではない。 幸村を、そこから救い出してやるのは。 「…まったく」 何を悔やめばいいのか。めぐり合わせか。それとも違うのか。 左近は、残っている酒を注ぐと一気にあおった。 そうやって、流してしまえれば、この感情もずいぶんと楽になる。 酔ってしまおう。 一つ決めて、さらに盃をあおった。
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