風の音色と




「兄上…」
「……」
 困ったな、と幸村はため息をついた。
 彼の前に座しているのは血を分けた兄である信之だ。酷く暗い面持ちをしている。今、柳の下に丑三つ時に立たれたら、普通に幽霊と間違える自信があった。
 いや、そんなことに自信を持っている場合ではないのだ。
 今は兄の一大事。兄の、というか、そもそもなんでそんなことになったのか、とため息が零れんばかりだ。
 発端は兄のいかんともしがたい語り下手から始まる。
 兄はすでに正室を迎えていて、その正室というのは、あの本多忠勝の娘、稲である。
 その稲姫とどうにか会話を探そうとして、つい弟の話を始めてしまったというのである。それは別にいい。稲姫も父の話をよくするから似た者同士だ。
 ただそれでうまく纏まらないのが女心というものだ。
 稲姫の機嫌が悪くなったのは翌日からだ。
 明らかにあの会話のせいだ、と兄はどんよりした顔で幸村に訴えた。
「素直に、謝ったらいかがです」
「………」
 うーん、と信之は俯いたまま腕組みを解かない。どうやらただ謝る気はないのか。それとも謝るにしてもその言葉と機会を考えているのか。
 なんだか極端に言葉が少なくなっている兄に、幸村は困ったように天井を見上げた。
 兄はさほど生きるのが下手な人間ではない。昔、いつもあまり前面に己というものを押し出さないことを子供ながらの無邪気さで問いただしたことがあった。その時は、いつものようになんてことはないというように、言ったものだ。
 あまり前に立つと後ろを忘れて困るよ、と。
 あの頃は意味がよくわからず、どういうことだろうと首を傾げたが、あれはたぶん兄なりの処世術というやつだ。
 そうやって常に一歩ひいて、静かに周囲を見つめている。
 そういう人だ。
「兄上」
 待った、と信之が掌を幸村に突きつけた。何か考えているというのか、相変わらず俯いて腕を組んでいるから、よくわからない。
 しかしどれほど待っても信之が何かを呟くことはなかった。思慮深いというべきなのか、長考にすぎると言うべきか、もしかして忍耐力を試されているのか、と考える。
 暑いな、と縁側の向こうの空に目をやった。夏そのものといった、あの高い空の青が美しい。目に眩しいほどの雲の白はこれでもかという様子でその空に伸び上がっている。
 夏だ。
 ふと気がつくと、信之もいつの間にか幸村の視線を追いかけて空を眺めている。考えることに飽きたのか、それともまだ考えているのか、どちらにしろ俯くことはやめたわけだ。
「夏ですね」
 こくり、と頷いて信之はなおも空を眺めている。
「暑いですね」
 また、頷く。
「この暑さです。少しお疲れなのかもしれませんね」
 その言葉に信之は頷くことはなかった。
「気の、安らぐことをしてさしあげてはいかがですか。戦ばかりでこの暑さ、いかに本多忠勝殿の娘で弓の名手であっても、気持ちが折れることはございます」
 こくり、とまた頷いた。
 ふと気がつくと、信之は幸村に笑いかけていた。
 先程までの、幽鬼のような陰は消えていて、夏らしい清々しい笑顔だ。
「………兄上、今度はきちんと、褒めてさしあげてくださいね」
 こくり、また頷いた。
 そして一つ。
 ようやく呟いた言葉に、幸村も笑う。

「ありがとう」



 その日の夕刻、稲姫が物凄い勢いで部下をかきわけ縋りつく奉公の娘たちを跳ね飛ばして辿りついた信之のもと。何か言ってやろうと言わんばかりに肩で息をして襖をあければ。

 ちりん、という涼しい音がして、その部屋で信之が笑っていた。

 綺麗な音と、信之の笑顔に、毒気が抜かれた稲姫がその場にへたり込むまであと少し。

 我が弟の策は当たるなぁ。
 のんびりとそんなことを考えたが、胸の内にしまっておくことにした。


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