その人が泣いている姿を、一度だけ見たことがあった。
その時は自分も泣いていた。そんな顔を見せれば恐らくあの人は男児たる者が泣くとはと叱るだろうから、そっと影から見守るだけにとどめた。
あの時、あの人は桜の大樹のもとで泣いていて、その姿が異様なほどにしっくりきて、ただでさえ真っ白な肌、漆黒の髪が桜の大樹に映えて、恐ろしいほど美しかった。
――怖い、とも思った。
それ以来、桜は怖い。まるで別の世界に知っている人を連れていってしまうような、あの花が。
怖かった。
上杉の援軍として来た、と言えば、真田家は歓迎してくれた。その歓迎は、それこそよくもこの死地へ進んで来たものだ、と言外に言っているようで、その場にはあらゆる感情が渦巻いていた。
(良くない空気だ)
周囲を見渡して、兼続は一息ついた。この独特の雰囲気。余裕のなさが周囲に伝わっていて、まるで針のむしろのようだ。
武田家が滅亡してから、関東周辺は混乱している。その上で今回、徳川は北条まで引き連れて真田家を潰しに来た。ともなれば、漂う空気が澱んでいても納得がいく。
真田からの援軍の要請が上杉に届いたのは、少し前の事になる。東国の不安定な状況は伝わってきていた。その上、武田家を失って今の真田は徳川の前にあまりにも非力だった。
勝てる戦とは思えなかった。誰もがそう言い、援軍を出すことを断るべきだと言い張っていた。被害は目に見えている。真田と共に倒れる必要はどこにもない。下手をすれば徳川のみならず、周囲に隙を見せる事にもなりかねない、と。だが、兼続はそれでは上杉の大義が成り立たない、と強く反対した。日和見な意見を見せることが上杉の大義にあらず。上杉の大義とはすなわち数の力に屈せず、謙信公の存命時と変わらず、義のあるところにその姿を現すべきである、と。
上杉は疲弊していたし、長く内部も混乱していた。その中でようやく上杉が外へ目を向けられるようになった頃には、謙信のいた頃のような強さは失われていた。
だからこそ、兼続は今回の援軍について、強く「出すべきだ」と説得を続けた。上杉はすでに天下から遠い。そう言われる上杉に、だが義は変わらずここにあると示さなければならない。義のあるところに上杉あり、と。
この援軍は、その為には願ってもない話だった。
「よう、上杉の援軍だって?」
そう言って声をかけてきた男は、堂々とした風体で見事なまでの傾気者だった。真田は上杉への援軍要請以外にも、牢人たちを雇って戦力を補充している。その中の一人だろう。
「ああ、直江兼続だ」
名乗れば、相手の男は笑った。そして前田慶次と名乗った。
「あんたもこんな戦に出てくるたぁ、怖いもの知らずだねぇ」
「馬鹿を言うな。怖いもの知らずではない。義があるからこそだ」
兼続の言葉に、慶次は興味深そうに兼続の視線の先を追いかけた。とはいえ視線の先にあるのはせわしなく動きまわる兵たちと、どこか落ち着きをなくした者ばかりだ。
それ以上の言葉があるわけでもなく、二人の間に沈黙が落ちた。
しばらくすると、慶次が口を開く。
「あんた、幸村とは会ったかい」
「幸村…とは、真田の次男であったな。まだだが」
「そうかい。さっき向こうの方で見たぜ。どうせだから声かけてきちゃどうだい」
「ふむ。そうだな」
真田幸村。真田の次男。何度か戦でその武勇は聞いたことがあった。が、いざ対面で会話した事などは一度もない。一度きちんと接してみたいとは思っていた。慶次に言われた通り、奥へ向かえばそこには桜の大木があった。時期が時期だけに、桜の花は咲いていない。が、桜の木だとはすぐにわかった。
その木の下で、幸村は動かない。手には十文字槍。瞑想をしているのかもしれない。声をかけるべきか悩んで、少し待った。幸村は自分には背を向けている。この集中力では、しばらく気付かないかもしれない。
兼続は気配を殺しているわけではないから、この集中力は大したものだ、と舌をまいた。
声をかけられる雰囲気でもない。その背をじっと見つめた。構えは型の通りで美しい。
ふと、そうしていて思い出した。昔のことを。
桜の花は満開だった。その下であの人が泣いていた。その時に感じた、遠い世界を垣間見ているような、不思議な違和感。自分が入りこめない世界がそこに展開されているような。
それが今、また目の前に広がっているような――。
たまらず、兼続は口を開いた。
「少し、いいかな」
その声に、幸村が振り返った。
静かな眼差しだったが、明らかに強い眼差しだった。まっすぐ前を見つめるその視線。一瞬、ぞくりとした。自分のいる世界と、向こう側が繋がったような、感覚。
「…気付かず、申し訳ありません。上杉の方ですか」
「……そうだ。上杉の、直江兼続と申す」
まっすぐ見つめられているはずなのに、何か遠くを見透かされているような錯覚。兼続は自然と眉間に皺を寄せた。
毅然とした中にある、不自然な静けさのようなもの。嵐の前の一瞬の静けさのようなそれ。
それを感じた兼続は、だが幸村にはそれと悟られないように接した。一体それが何なのか、見定めようとして、出来ず。
「此度は…援軍、まことにかたじけない。よろしくお願いいたします」
幸村のその言葉に、兼続はぎこちなく頷いた。
脳裏に浮かぶ桜の大樹。満開の花。その下で泣く、美しい人。
何故かそれが、幸村と重なって、不思議な感覚だった。
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