兼続は言葉を使うのがうまい。
 それは上杉の兵士を鼓舞する時に使われる事もあり、三成や幸村を時には励まし、時には叱咤する言葉になる。他にもたくさんの言葉が彼の身体の内には眠っていて、いつどんな時に発せられても問題ない、とばかりに彼の身の内を埋めている。
 三成はそれを口から生まれてきた、と皮肉るが、幸村はそうではないだろうと思う。もしそうなのだとしたら、幸村は兼続の言葉に勇気を貰う事などないはずだ。
 三人で呑んでいた時にそう言ってみたら、三成も兼続もそれはそれは驚いた顔をした。それから二人は顔を見合わせて、笑いだした。
「な、何かおかしなことを言いましたか」
 兼続も三成も、幸村にしてみれば大切な人たちだ。友であり、幸村にとっては守るべき相手でもあり、そして自分を導いてくれる人たちでもある。
「いや?私は果報者だと思ってな。なぁ三成」
「ふん、言ってろ」
 よくわからなかったが、だが幸村の言葉で場の空気がおかしくなることはなかった。三成も兼続も気持ちよく呑んでいて、気持ちよく酔っ払っている。三成も兼続も、肌の色が白いから酔っているのがよくわかった。特に、その日は兼続がよく酔っていた。兼続は酒に強い。昔から謙信公の酒の相手をしていたという兼続の事、酒を呑む早さは慶次にすら負けないが、変な風に酔っぱらったりはしない。だからこそ、その日の兼続は珍しかった。
 三成は好きにさせてやれと言うだけで、止める気もない様子だ。
 しかしこのままでは、と思っていた数刻後には、予想通り兼続は酔い潰れた。本当に珍しい姿だった。
「すまぬが俺もずいぶん酔った。兼続は幸村が面倒を見てくれ」
 三成にそう言われては頷くしかない。実際、兼続が深酒していくにつれ心配になってしまって、幸村はあまり盃を重ねていない。確かに三成も酔っていて、ふらふらした足取りだった。取り残された幸村は、その場ですっかり眠ってしまっている兼続の寝息を聞きながら、小さくため息をついた。
 珍しいな、と思う。
 幸村も酒には強い。それに酒が好きだ。そうなると、配分というものは自然と掴めてくる。掴めてしまえば、あまり変な風に酔う事も少なくなる。それでもそうやって酔っ払って前後不覚になる時は、幸村にしてみれば何かを忘れたい時や、疲れている時だった。だからこそ、兼続もそうなのではないか、とつい勘繰ってしまう。
 兼続の、寝息は一定の間隔で続いている。
 幸村はそっと兼続の元へ近寄ってみた。畳みの上を少し移動して、兼続を見下ろすような至近距離で、その寝顔を眺めた。
(…少し、痩せたようにも見えるな)
 だが兼続は三成ほどはっきりそうとはわからない。
(…何か話してくれれば、少しはわかるのだが…)
 幸村にとって、兼続の状態を一番はっきり知ることが出来るのはその声だ。声の調子で、彼が今どんな風に考えているかが、わかる。興奮している時、冷静な時、面白がっている時、悲しい時。ほんの少しだけ変わる声の調子。それだけで。
(私は兼続殿の声が、本当に好きだな)
 そう考えていて、ふと笑ってしまった。
 前から知っていたが、それでも改めて自覚するぐらいには、幸村は兼続の声が好きだ。あの声には力がある。背中を押されるような錯覚。あの声があれば、兼続が見ていてくれるなら、大丈夫だ。必ず、兼続たちが満足する戦果はあげられる。
 とはいえ、そのたびにどうして突出するのかと叱られることもままあるのだが。
「…兼続殿」
 起きて下さい、と肩を揺さぶってみる。だがそれくらいでは起きる気配はなかった。小さく呻いた兼続が、うるさそうに腕を振る。力ないその腕は、そのまま幸村の膝の上に落ちた。
 兼続の掌は暖かい。
 幸村は少し笑って、その手に自分の手を重ねた。
「兼続殿」
 だが二度目の呼びかけにも兼続は反応しない。
 幸村は困ったように一息ついた。いっそ一人でしばらく呑んでいようか、とも思ったが、すでに三成もいないこの席で、寝ている兼続相手に一人で呑むのはいささかつまらない。幸村にとって、二人のやり取りを聞くのは一番楽しい時なのだ。
 そうなってくると、余計に兼続の声が聞きたい気がして、幸村はすっかり困り果てた。
 膝の上に置かれた兼続の掌は、無造作で動かない。幸村はその手に自分の手を重ねていたが、その手で少し遊びながら、兼続の指の美しさに見とれた。
 兼続はそういえば文も美しい。どちらかといえば溢れんばかりの生気がそこに見てとれるような文字だ、とも思ったが、それが幸村は好きだった。
 あの文はこの指で、この手で書かれている。筆をとり、執務の一つ一つもこなしていくのだろう。
 対して幸村自身のそれは骨ばっていて、武骨なものだった。それはそうだ。暇さえあれば槍を振り回している自分と、忙しく政務をこなす兼続と。兼続は景勝に重用され、上杉になくてはならない人だ。
 つくづく、立場が違う、と気づかされる。
 不思議な縁で、この人たちから友と呼ばれるようになった。それは、幸村にとって生きる意味にすらなった。
 生きる気力なく、ただ飼い殺されるように生きてきた自分にとって新しく見つけた生きるための目的だった。戦う為の道だった。
「………」
 失えない。
 この手もあの声も、そもそもこの人自身を。
 じわじわと考えれば考えるほど、思いつめるように、胸が苦しくなった。
 だからこそ、身を呈して守ろうと考えて。
「酷い顔だ」
 幸村自身、そう考えている時どんな顔をしているかはわからなかった。
 だが唐突なその声に、幸村は肩を震わせて驚く。声は、勿論兼続のもので。
「かっ…兼続殿」
「すまん、どうやら酷く酔ったようだな」
 言いながら、起き上がろうとする。するりとその手が幸村の手をすり抜けた。
「…はじめてですね、そうして酔われるのは」
 言ってみれば、兼続は酷く眠そうな顔で頷く。
「ああ…幸村が、嬉しいことを言ってくれたからな。つい羽目をはずしてしまった」
「…私が?」
 どういう事かわからない、という顔で首を傾げれば、兼続は一度はすり抜けた幸村の手に、自分から手を伸ばす。
「私の声が、幸村に力を分けているのなら、こんなに嬉しいことはないよ」
 言って、兼続は笑った。酔っていてどことなく危なっかしい微笑みだ。だが、幸村は完全にその笑顔に射抜かれた。
 幸村の手をとって、兼続が自分の両手で包むようにする。
「うん、嬉しいぞ。幸村。もっとたくさん語りたくなるよ」
「…語って、下さい」
 ぎこちなくそう返せば、兼続は満足したように頷いた。そしてそれから、ぐらりと身体が傾いで、幸村へ身を預けるようにして再び眠りについた。
 最初は肩のあたりに頭をぶつけるようにしていた兼続は、そのままずるずると身を滑らせて、気がつけば幸村の膝の上に頭を乗せて、完全に眠っている。
 兼続に握られていた手はすっかり自由になっていたが、今度はその自由になった幸村の指のそばに、兼続の寝息がかかる。
 一定の、乱れない間隔。
 幸村は動けないまま、ただじっと兼続を見つめていた。

 翌日、兼続は当然のように二日酔いになって地獄でも見たような顔色をしていた。
 一方三成も同じようで、やはり翌日になっても無事なのは幸村一人だったようだ。左近がその現状に肩を竦める。
「今日は一日仕事になりませんな。まぁいい機会ですよ、二人とも激務でしたからな」
「…やはり、そうですか」
 左近の言葉に幸村がしみじみと頷いた。そうでなければ兼続があそこまで酔う事もなかったはずだ。
 知られたくなかったのかもしれない。だからあの時、あんな事を言ったのかもしれない。

――幸村が、嬉しいことを言ってくれたからな。

 目覚めた直後に兼続にそう言われた。だがそれだけで兼続が羽目を外すとも思えない。幸村にしてみれば、激務だった事からの深酒と、疲労の蓄積の結果の泥酔だと言われた方がよほどそれらしい、と納得できるものだった。
「悪いが幸村、殿と兼続殿の面倒を頼めるか?二人は同じ部屋に突っ込んであるから」
「ええ、はい。わかりました」
 左近に頼まれて、幸村は頷く。そして言われるまま、二人が寝かされている部屋へと辿りつけば、兼続と三成は二人揃って呻いていた。
 三成は元々酒が弱いからよく見た光景だが、それが兼続もとなるとやはり不思議な状態だ。
「お二人とも、大丈夫ですか」
 声をかければ、二人が何とか頷く。二人とも顔色も悪い。とはいえじっとしているしかないような状態だ。何か話していても、今の二人にはうるさいだけだろう。そう考えて幸村は特に何を語るでもなくじっとしている事にした。
 しかし実のところ幸村もあまり眠っていない。黙って二人を見守っているのも、なかなか辛いことだった。眠気は次第に抗いがたくなってくる。数度船を漕いだが、それでも数刻はもっていたと思う。が、それ以上はもたなかった。
 寝息が聞こえてきたのに気づいたのは兼続だった。
 三成はどうやら頭痛に悩んで呻いているよりはと無理やり眠りに就いた様子で、こちらもまた寝息が聞こえてくる。今起きているのは兼続一人だった。
 相変わらず頭は痛む。こんな風に二日酔いになったのは本当に久々のことだ。まだ自分の酒の限界を知らず、謙信の前で酔っ払ってしまった時以来。そう考えると、本当に久々のことだと自覚させられた。そしてあの時も、やはりこうして寝かされていた。もっともあの時は悪酔いした人間皆雑魚寝で、あちこちから呻く声や寝息が聞こえてきて、静かな中でも賑やかだった。
 だが今は静かだ。二人の寝息しか聞こえない。
 不思議なものだ、と思う。
 兼続は以前から、三成にだけは自分の感情についてを語っていた。幸村の事が好きだと告げれば嫌いな奴はそういないだろうと返された。そうではなくて、本当に好きなのだと言えば、三成は一瞬眉間に皺を寄せた。本気か、と尋ねられた。本気だ、とも答えた。
 無茶はするなよと言われて頷いた。だからこそ、昨夜の酒の席での幸村の言葉には心底驚かされた。
「…私の声が好き、か…」
 思わず声に出してそう呟く。
 嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、じわじわ笑みがこぼれてしまうくらいだ。幸村は、兼続の言葉には嘘はないとも言ってくれた。そして、だからこそ幸村の力になると。
 ならば本当に、三成に煩がられるくらいには語り尽くそうと思う。
 幸村の力になるならば。幸村の活力になるならば。この咽喉が枯れたって、それはそれで幸せな事に違いない。
 幸村の事を好きだと思ったのは少し前のことだ。昔から弟のように思っていた。幸村はこちらの事を素直に聞いてくれる。飲み込みも早い。砂が水を吸収するように覚えていく。もともと誰かに何かを教えるという事は嫌いではなかった。だが、積極的に何かを教えてほしいと頼ってくる幸村に対してどんどんのめり込んでいくのがわかった。幸村に教える、という事もだが、幸村といる時間を大切にしようとする事に、だ。
「………」
 痛む頭を抱えたまま、兼続はそっと身体を動かした。起き上がろうとしたがさすがにそれはやめた。無遠慮なまま痛む頭はなかなか手ごわい。兼続は腕だけ伸ばした。とはいえその手が幸村に届くことはない。
 ふむ、と諦めて、兼続はため息をついた。
 本当は三成が退散した後に、酔いに任せて幸村をそのままどうにかしてしまおうかとも思った。が、さすがにそれはあまりにも不義な気がして踏みきれなかった。自分が嬉しいからといって勝手にその気になっても、幸村がそんな気がなければ成立しない。
 幸村と兼続とでは、その力の差は圧倒的だ。
 幸村は強い。そういう意味で、幸村と望む関係になれる時は幸村が抵抗してこない時だけだ。もしかしたら、兼続が幸村に抱きたいとでも言えば幸村は許してくれるかもしれない。が、それでは後で幸村が後悔する。だからそういう関係になる時は、幸村の気持ちがわかった時だ。その感情が、その矛先が自分に向いているとわかれば。
「…私の声で、幸村が…」
――好きになってくれれば。
 呟いて、それから笑った。
 なら、前向きに。あり得ないと考えずに、きちんと自分の感情に前向きになってみようか。そうすれば、あるいは。
 ふと視線を感じて、兼続は三成の眠っている方へ視線を動かした。
 すると、今まで眠っていたはずの三成がこちらを見ている。
 三成は呆れたようにこちらを見ていたが、特に何を言うでもなかった。
 三成にはこれでもかと幸村への感情を語っている。今の視線一つにしても、雄弁に過ぎたかもしれない。
 どれだけ聞かされても三成はその感情自体は否定してこなかった。それが心地よい反応だった。三成はかけがえのない友だ。そして幸村は。
 それとは別の、かけがえない相手だ。
 つくづく思って、兼続は再び手をのばした。相変わらず幸村には届かない。触れたいな、と思う。触れて、触れて、触れて。
 最初に軽く口づける。その先はたぶん、最初に額へ。自分よりほんの少しだけ視線の高い、想う相手の額へ。そこから降るような口づけを。