真田丸と名づけられたそれの着手には多くの障害があった。が、それらは清正がねじ伏せていった。あれが徳川との戦での攻守を入れ替えられる可能性のある仕掛けだ。幸村は一番効果的な位置をすでに把握していたし、それらが出来る事によって幸村への風当たりはまた微妙になっていたが、気にしていないようだった。
 すでに城は堀を埋められ、ほぼ丸裸に近い。
 その日も幸村は忙しくしていた。
 清正たちも奇襲作戦の為に周辺の偵察に出ていた。少し前に、豊臣方につくと、立花宗茂が参陣していて、内部の士気は決して悪くはない。鎮西の風と呼ばれて秀吉からは本多忠勝と肩を並べる武勇だと褒め称えられた男だ。士気が上がるのは当然のことだった。
「清正、偵察か」
 偵察帰りの清正に涼やかに声をかけてきた宗茂に、清正は頷く。彼の周辺に女がいるのはいつもの事だったが、その日はその前にいる女が気になった。
 幸村の忍びだ。
「何かあったのか」
「何、少し話をしていただけだ。例えば幸村のどこがいいのか、とか」
 くのいちが幸村を好いているというのは、もう周知の事実だ。知らないのは本人ばかりという状況だったが、戦況が芳しくない中でそんな話にふけるほど、皆暇をしていない。幸村が急造している真田丸に対して徳川本営の動きも慌ただしい。
「んだよ、てめぇそんなこと聞かなくても女寄ってくんじゃねぇか。他の奴好いてる女にまで手出すんじゃねーよ」
 正則が馬上からそう悪態をつく。ここは正則の意見ももっともだった。くのいちは何も言わない。
 このくのいちという女は幸村の忍びにしては自由奔放に見えたが、幸村に対してだけは真摯だった。それが恋愛感情からのものであっても、主に対して真剣なのは清正にとっては好印象だ。そしてそんなくのいちの足どめをしている宗茂を、清正は馬から降りて窘めようとした。
「他の誰かのものに手を出したくなるのは男ならよくある事だろう?なぁ清正」
 宗茂の問いかけに、清正はぴくりと頬をひきつらせた。数日前にここにやってきたばかりの男が、何を言いたいのか。何を暗に問いかけようとしているのか。
「俺にはわからない」
「隠す必要ないじゃないか。誰にもある感情だぞ」
「うるさい、馬鹿。いい加減そいつを解放してやれ」
 行っていいぞ、と促そうとした瞬間だった。
「駄目だな。その懐に隠してる書状を見せてくれないと解放出来ない」
 宗茂の言葉に、清正は一瞬何の事だかわからず首を傾げる。が、くのいちに視線を向ければ、気まずそうに一瞬舌打ちした。
「…何の書状だ?」
「なんですかぁ〜?別に、大したもんじゃないっすよ!」
 清正の問いに、くのいちはいつもの調子でそっぽを向く。両手を頭の後ろで組んで、素知らぬふりでいた。何とかこの場を何事も起こさず逃げ出そうと言うのだろう。だが、あからさまに逃げては幸村の立場が悪くなる。それを知っていて、あえてくのいちは逃げ出さない。
 幸村はずっと、東軍――徳川方と通じているのではないか、という噂はあった。実の兄の嫁が本多忠勝の娘である事が特に大きい。その為に生きながらえたという事実も。
 ただ、幸村がただ飼い殺されているのをよしとしない性質である事を、清正は知っている。その上で、三成との約束を守ろうとしている事も。それらを考えれば、敵と通じているはずなどない。
 だが、くのいちが何も言おうとしないのが清正の不安に火をつけた。火はまだ弱い。少し風を起こせば消えてしまうほどではある。だが、くのいちの態度が不安を呼ぶのも確かだった。
「事を荒立てたくない」
 宗茂がそう言って、微笑む。だから渡してくれ。くのいちは気づいているのだろうが、あえて気付かないふりでそっぽを向いた。
 その時だ。

「何事ですか」

 その場に知らないふりで飛び込んできたのか、それとも知っていて飛び込んできたのか。幸村が姿を現した。
「くのいち、頼んでいたものは?」
「…は、はいっ。ここに!」
 宗茂と清正とをそれぞれ視野に入れたまま、幸村はくのいちから書状を受け取る。
 その場で開いてそれを一瞥すると、満足したようにくのいちに下がれと命じた。くのいちはしばし逡巡したが、幸村を信じた様子で素早く姿を消した。幸村の態度には、何ら恥じ入るところはない、とばかりに堂々としている。
「くのいちが何か気に障る言動でもいたしましたか?」
「いや、可愛いお嬢さんだと思ってね」
 幸村の問いに、宗茂はそれをうまくかわして微笑んだ。そんな二人を見て正則はおろおろしている。場の空気は悪い。清正は舌打ちして、幸村の腕を掴んだ。
「ちょっと来い」
 力任せに引っ張って連れていこうとした清正に対して、幸村はそれに抗わない。流れるようにその力に身を任せ、残る二人に一礼してその場を後にした。
 残された二人は、二人でほぼ同時に小さくため息をつく。
「どうした、おまえがため息など珍しい」
「てめぇだって同じじゃねぇか」
「はは、そうかもしれない」
 二人が向ける視線の先は、清正が幸村を連れていった先。
「…いやぁ、意外に、あれは面倒だ」
 宗茂はそう呟いて、肩を竦めた。
(飲まれるなよ、清正)
 しかし宗茂の懸念が清正に届くことはなかった。


 人のほとんどいない場所まで幸村を連れてくると、ようやく清正は幸村に向き合った。
 二人の身長はほとんど変わらない。正面から向き合えば、自然と視線は真っ直ぐぶつかることになる。幸村も、清正の視線を受け止めて、それを逸らそうとはしなかった。
「どういうつもりだ」
 清正の第一声に、幸村は少しも表情を崩さずに聞き返す。
「どういうつもりとは、どういうことです」
「くのいちを助けたな?」
「おかしな事を。くのいちは私の、真田の忍びです。助けるも何もありませぬ」
「じゃあ何故あの場で宗茂がくのいちを足止めしていたのかはわかるか」
「ええ、わかります」
「なら…!」
「あれはくのいちを助けたのではありませぬ。我ら真田が、東軍と繋がっているという話が広まっていることは知っております。しかし現状その噂を打破する事はかないませぬ」
「だったらもうちょっと、」
「あの書状は、義姉上からのものですよ」
「…っ、おまえ」
 思わず周囲をうかがった。誰もいない。当たり前だ。いない場所をわざわざ選んできたのだ。いない場所でよかった。
「読まれますか」
 そう言って差し出してきた書状に、清正は手を伸ばすべきかどうか酷く悩んだ。試されている気がしたのだ。
「…おまえの義姉、ってことは、あいつだろう。本多忠勝の」
「ええ、そうです。兄と共に東軍におります」
「どうせ、降れって書いてあるんだろう」
「そうですね」
「……どうするつもりなんだ」
「どうもしません。もう返事はしませんよ。私は豊臣方についたのです」
「……なんで、そこまでする?」
「なんで、とは?」
「血の繋がった兄弟より、三成との約束の方が大事なのか」
「……兄とは、お互い守るべきものが違った。それだけです」
「………」
「私はただ私の心の思う通り、願う通りにここにいます。私に、東軍へ降る心はありませんし、通じているといったこともありません。信じてもらえるとしたら、それは私が死ぬ時でしょう」
「……死ぬ気でここにいるのか」
「勝つ気で、います」
「…勝てると思うのか」
「清正殿らしくありませんね」
 幸村の言葉に、清正ははっとした。そうかもしれない。いつもの自分は、もっと、他人に対しては距離を保とうとしていたはずだ。冷静さを失うほど近づくのは危ない。正則や三成と兄弟のように育った分、自分も含めてその三人の間がうまくいかないたびに実感したことだ。あまり近いと見失う。
 なのに、ずいぶん踏みこんでいるんじゃないのか。今、この距離は。
「……こういうのは、三成の役だった」
 そうだ。必要以上に心配して、必要以上に苦言を呈する。そんなこといちいち言ってやる必要もない、と思ってもそれは変わらなかった。身体で覚えなければわからない正則にもそうだ。
「そうですね、少し三成殿を思い出しました」
 幸村が笑う。
 ふ、と昔を懐かしむような笑みに、清正の胸が酷く痛んだ。
「清正殿」
「…あぁ」
「父は、秀吉殿から表裏比興の者と言われておりました。父の知略は、確かに我が真田を生かしたものです。むしろ誇るべき言葉だと思っております」
「……」
「しかし私にはさしたる才はありませぬ。あるとすれば、武のみ。なればこそ清正殿、私の武、存分に使って下さい。どんな務めも、果たしてみせましょう」
 ああ。
 そういう事を、この男は笑顔を浮かべながら言うのだ。
 ほんの少し前まで、自分に対する疑心を抱いていた相手に。この命を好きにしろと言うのだ。
 こんな風に言われたら、あの三成が放っておけるはずがない。正則とは違う危うさがある。その力は魅力的だ。真田が豊臣方についたと聞いた際に、正則が喜んだように。「真田」の名には不思議と心踊る力がある。その昔は武田信玄のもとで。信玄亡き後は、僅かな土地を守る為、すでに巨大な力を持っていた徳川と対峙した。そんな男にこうして微笑まれて、好きに使えと言われたら。
「…やめろ、馬鹿」
 自然にそう呟いて、清正はふらふらとその場をあとにした。
 死ぬことすら厭わない。
 他人にどう後ろ指をさされていても、気にしない。それくらいで、幸村の貫こうとするものは変わらない。幸村にとって最も大事なものは、もっと別のところにあって、もう揺るぎようがない。
 あの言葉がもっと別の場所で、別の時に聞いた言葉だったなら、どれだけ心強かっただろうか。だが幸村はあえて、今言ったのだ。自分の死に場所は、もう決めている。
 清正は顔をあげた。そこからでは徳川本営は見えない。が、きっとこの視線の先に家康はいる。そして決戦となれば、幸村は単騎ででも本陣に突っ込むのかもしれない。家康と切り結ぼうとする姿が見える気がした。