あっちにいたんだって、と言いだした正則に、幸村はそうですか、と頷いた。
 ゆきと名づけられた子猫が逃げ出したというので、探し始めてもうどれくらい経っただろうか。幸村と正則がその捜索を始めてからもうだいぶ経過していた。すでに月が空に昇り、星がか細い光で輝き始めているような刻限だ。正則や清正、それに三成といった、秀吉の元で多くを学んでいる彼らは必ずねねの手料理を食べる事になっている。
 いつもなら早く食べたいと言って腹を減らしている正則が、この時は珍しく子猫を優先させていた。
 情に厚い正則のことだ。放っておけなくなってしまったのだろう。
「悪ぃな、幸村」
「いいえ。早く見つかるといいのですが」
 茂みの中、かがみながら歩いて子猫の姿を探す。
 が、一向にその姿は見当たらない。こうして二人だけで探しているのには、実はわけがあった。その日、子猫の世話を任されていたのは正則だった。一人だったところに所用があって幸村がやってきた。子猫の相手にも少し飽きてきていた正則は、少しの間幸村と手合わせをしていた。無論、幸村も正則も子猫の所在を気にしながらだった。だが、うっかり集中してしまった隙に、子猫の姿が見つからなくなったというわけだ。
 さすがにねねに言うわけにもいかない。清正や三成にも言えないというので、幸村も責任を感じて一緒に探す事になった。
「いませんね…」
 すでに月が昇っている今、もう周囲は暗くてどうにもなりそうにない。だが二人は諦めようとはしなかった。とはいえ、もうだいぶ長いこと探している。次第にしょんぼりし始めた正則を、幸村は励ますように言った。
「白い猫ですし、夜でも見つけやすいですよ、正則殿。頑張りましょう」
「あっそういやそうだよな!よーし頑張って見つけようぜー!」
 幸村の言葉に正則は俄然元気になった様子で、大きな身体を二人で縮ませながら探しまわる。
 季節は春先。まだ桜は蕾程度の頃で、夜ともなると寒くなる。あまり長いことこうしていても、正則の身体に障るだろう。そうなったらねねが騒ぐ。
 しかし寒空のもと、子猫一匹を探すのはなかなか骨の折れる作業だった。
 どれほどしただろう。次第に二人とも言葉数が少なくなってきて、ついに正則が小さくくしゃみをした。
「…正則殿、寒いのでは…」
「おー、まぁちょっとなー。でも大丈夫だぜ!俺ァ小さい頃から風邪ひいた事ねぇんだ!」
「そうなのですか。それは凄いですね」
「頭でっかちには、馬鹿は風邪ひかないとか言われるんだけどよぉ。ひかないなら馬鹿も捨てたもんじゃねーよな!」
 胸を張ってそう言う正則に、幸村は微笑んだ。
「はは、確かに。私もあまり風邪はひかないんですよ。同じですね」
「マジかよー!幸村も俺と一緒かぁ!」
 二人でひとしきり笑うと、再び子猫探しを続けた。寒いには寒いし、指先は二人ともとうに冷えきっている。が、幸村も正則も、探すのをやめよう、とは口にしなかった。
 そうしてまたしばらく探し回るうち、正則がぽつぽつと口を開く。
「…前にもこんなことあってよ」
「子猫ですか?」
「んー。そん時は、皆に内緒にしてて、餌とかやってたんだよなー。でも怪我してて、あんま食べねぇし、どんどん弱っていくだろ。なんか怖くなっちまってよ…」
 小さな頃の話なのだろう。幸村は黙って話の続きを待った。
「………」
「でも叔父貴にゃ言えねーし、おねね様にも言えなくて、俺一人でおろおろしてたら、清正が来てくれてさ」
「心配されてたのでしょう」
「俺がわかりやすいって言われてよー。そんで一緒に、その猫を看取ったんだよなぁ…」
「………」
 だからか、と幸村は気がついた。だからあの時、町で子猫と、その親猫が冷たくなっているのを見た時、正則は親猫の墓を作ると言ってその場に残ったのだ。小さな頃の体験から、放っておけなくなってしまったということか。正則の話はまだ続く。
「動かなくなって、俺もうずっと泣いちまってさぁ…清正は何にもいわねーで墓作ってくれて、なんかそれも悪くて謝ったらまた馬鹿って言われちまうし。いいから泣いてろって言われてずーっとさ、結局頭でっかちが来るまで泣いてたなぁ」
「………」
「頭でっかちは、なんかおねね様の握り飯持ってきてくれてよー。その猫の墓と、あと俺と清正とで食べたんだ。あれ美味かったなぁ。…俺がもうちょっと、ちゃんと出来ればあの猫にも、おねね様の手料理食べさせてやれたかなーとか思ったら、なんか、それ以来子猫とか見ると目で追いかけちまうんだよなー。ずーっと…」
「正則殿は優しいですね」
 幸村の言葉に正則はへらへらと笑った。恥ずかしいのかもしれない。
「えーそんなことねーよ」
「いえ、清正殿も、三成殿も、皆お優しい」
「…けどよー幸村だって同じだろ!」
「…どうでしょうね」
 自分のことを言われて、幸村は戸惑ってしまった。幸村にはそういった経験はない。確かに子猫を見つけて拾いはしたけれど。それに、もしその場に自分がいたらどうしていたか。…笑えるくらい、答えはあっさりしている。
「なんでだよー。幸村今だって俺につきあってくれてるじゃねーか。優しいだろ」
「それが優しいというなら、そうなのかもしれませんが。…私がその場にいたら、苦しませない為に死なせてやったかもしれません」
「……まぁ、そりゃあ、そういう優しさ、みたいなのもあるかもしれねーけどさ」
「それは優しいと言うのでしょうか。見ているのが辛いから、ならばこの手で、というだけです」
「幸村ぁ、おまえ、そーゆーのやめろよ。おまえは優しいんだって!俺はそう思うぜ!」
 途端に正則が大きな声で叫ぶ。まるでこちらを言い聞かせるように。幸村はどうこたえるべきかわからず、ただうっすらと微笑んだ。
「…ありがとうございます」
「やめろよ、本当のこと言ってるだけなんだしよ」
 正則は不貞腐れた様子でそう呟くと、子猫探しを一旦やめて、その場に座り込んでしまった。
 幸村はどうすべきか少し迷って、だが正則の機嫌を悪くしたのが自分だという認識もあったから、一緒になって座り込むのではなく、子猫探しを続けた。
 正則は何も言わない。が、視線は感じるし、不機嫌な気配も伝わってくる。隠すことのないその感情に幸村はつくづく思う。正則がどれだけ幸せに育ってきたかを。
 自分が不幸だとは思わないが、それにつけてもこの乱世の中、どれだけ彼らが大事に育てられたか。それがよくわかる昔話だと思う。
「…幸村にはなんか、ねーのかよ…そーゆー話」
 しばらくはだんまりかと思っていた正則だったが、不機嫌なままに話しかけられた。少し驚いて、そしてそれと同時に困ってしまった。
「私ですか。私は…、そうですね。お館様…信玄公のところにいた際には、いろいろ」
「聞かせろよ」
「お聞かせするような話は何も…」
「あるだろ!あるんだって!ぜってーある!何でもいいから聞かせろって!」
「…困りましたね」
「なんで困るんだよ。別に面白い話しろって言ってんじゃないんだぜ」
 何故そんなに聞きたがるのかがわからないまま、幸村はしばらく考えこんだ。子猫を探すのも一旦やめて、じっと一点、足許を見つめる。信玄のところにいた頃の話は勿論、いくらでもある。だが、正則が語ったような話はあまり思い当たらない。戦は多かった。戦場に立った回数もそこそこ多い。どちらかといえば、日々戦のことばかり考えていた気がする。
「……私は、信玄公のところにおりましたから。…あの方が言う王道、というそれこそが正しいのだと思っておりました」
「ふーん」
「病で、天下には届きませんでしたが」
「………」
「その時に言われたのです。王道を、と。…私にその道を継いでほしいと」
 天下に王道を。その為に京の都を目指した。だがその途中で信玄は病に伏した。その最期の時に、幸村は信玄から直々にその言葉をもらった。今もあの時のことを思い出せる。
 一体何の為に信玄が自分にそう言ったのか。言ってくれたのか。
「…よくわかんねーな…」
「そうですね。それで気が付きました。私にもそれがわからない」
 武田家が滅亡した戦も、その後の戦も、幸村は槍を持って戦場に立った。そのたびに考えていた。王道とは一体何なのか。だが、言葉としては理解出来ていても、何をすべきなのかがわからない。
「………」
「それが、悲しいんです」
「……わかんねーから?」
「はい」
「……ふーん…」
 もっと日常の中の話をすべきだっただろうか。そう考えたがもう遅かった。それ以外に思いつかなくて、つい口を滑らせてしまったことだ。
「…この話、実はくのいちにも左近殿にも、…三成殿にもしていないんですよ」
「あー…?なんで?」
「どうしてでしょう。言えないんです。たぶん、…それを言ったら、落胆される」
 脅迫観念のような。
 口にして、言葉にしてみて、はじめて自分がそう思っていたのだと言ってしまえば、唐突に胸が苦しくなった。だがそれに対して、正則はといえば、どこか呆気にとられたような顔をしていてる。
「そんなのしねーよ。だってわかんなくて当たり前だろ」
「そうでしょうか…」
「わかんなくて当たり前じゃねーか!俺もわかんねー!清正とか頭でっかちにだってわかんねーよ!」
「………」
 正則の言葉に幸村は頷くことも出来ず、ただじっと俯いていた。そうしていれば、正則がどことなく苛立ったような声音でぶつぶつ言っている。
「いいじゃねーか。わかんねーもんはわかんねーで。わかんねーなら誰かと一緒に考えたりすりゃいいだろー?」
「…そう、出来ればいいんですが」
「…じゃああれな。その答えについては俺ら二人で考えようぜ」
「え?」
「俺も誰にも言わねーからよ!な!」
 そうやって話しているうちに、幸村はふと耳を澄ました。まだ話そうとする正則を制して、周囲の気配に神経を張り巡らせて――。
「いた…!」
 子猫が、すぐそばの茂みで震えて鳴いていた。
 ゆきと名づけられたその猫だった。おそるおそる幸村が手を伸ばす。子猫は、逃げ出さずに幸村の手の内におさまった。
「ど、どうだ?」
「大丈夫そうですね」
「まじかよ〜」
 幸村の手の中にいる子猫は相変わらず震えている。正則が指を出せば指先の匂いをかぐように少し身を乗り出してきた。
「大丈夫ですよ」
 幸村の言葉に正則は頷く。
 二人して戻ろうとした時だった。
「おい!」
 呼びとめられて、幸村と正則が振り返れば、そこにいたのは清正だった。少し遅れて、三成も現れる。
「何やってんだ、馬鹿」
「おー清正ぁ。よくわかったなー」
「…おねね様が心配してる。第一、幸村まで連れて何を…」
 言って、ようやく幸村の手の中の子猫に気がついたらしい清正が、盛大なため息をついた。どうやらここに二人でこうしている理由も察したらしい。三成も同じくだ。
「正則の馬鹿につきあってやる必要などなかったのだぞ、幸村」
 三成の言葉に幸村は笑う。
「いえ、私にも責任がありますから」
 途端に三成が何か言いたそうに口を動かす。が、それを三成が言いきる前に、まどろっこしいとばかりに清正が口を開いた。
「どうせ正則が目を離したんだろ」
「私もですよ」
 頑としてそう言い張る幸村に、清正は肩を竦めた。三成はといえば、恐らく少し前の朝の事を謝りたいのだろう。先ほどから何か言おうとしては躊躇って、それをずっと繰り返している。まどろっこしい事この上ない。が、清正としては助けてやる気はなかった。
「ほら、貸せ」
 清正はため息をつきながら、幸村から子猫を預かった。子猫が幸村の手から離れると、幸村はほんの少しだけ安堵したように息をつく。
「おい、行くぞ。ずいぶん冷えきってるじゃないか」
 促されて、幸村は清正たちの後をついていく。ふと振り返れば三成がまだそこに立っていた。幸村は自然と足を止める。
「三成殿?」
「…幸村、少し、話がある」
 その言葉に、幸村は頷く。清正はそんな二人を一瞥したが、何も言わずに正則を連れてその場を後にした。横で正則が寒いとぼやいている。子猫は俺が面倒みる、と言えば正則はにやにやしながら、おねね様が来てくれるもんなぁと笑った。