その日は実に平和な一日だった。のどかな天気に戦などのない過ごしやすい一日。
そんな日に、馬岱殿、と声をかけられて振り返れば諸葛亮がいた。馬超と二人のところに声をかけられるのは珍しいことだ。それに諸葛亮本人が来るとはよっぽど切羽詰まったことでも起こったのか。
「あれー?どうしたの、諸葛亮殿」
「申し訳ありません、少しお話が」
「ごめんね若、ちょっといってくるよー」
そう言うと、馬岱はひらひらと手を振って諸葛亮の方へ駆けていった。取り残された馬超は、その馬岱の後ろ姿をじっと見つめる。じわり、と胸に広がった感覚が何だったのか、よくわからない。とりあえず胸を押さえて、それから首を傾げた。
「具合でもお悪いのですか?」
そうしていた矢先、別の方角から声をかけてきたのは趙雲だった。
趙雲が諸葛亮に呼び出されず、馬岱が呼ばれたという事は、馬岱が請け負っているという目立たないが大事な仕事、というやつだろうか。どういう内容であれ直々に呼び出されるという事に対して、誰もが身構えてしまう相手だ。諸葛亮というのは。
「いや、何でもない」
馬超が取り繕うように言うと、趙雲がふっと笑った。どうもこの趙雲という男、同じ五虎将として名を連ねているのだが、顔が整いすぎていて、何もかも見透かされているような気分になる。人当たりはいいし、強いし、頼りになる。劉備の志というのに酷く感銘を受けていて、それはもう、それ以外の道など見当たらないだろうというほど、忠臣だと思う。馬超でも。
だが、とりあえずその場では思わず逃げ腰になった。
「そうですか。珍しく辛そうでしたので」
「…辛そう。俺が?」
「ええ。違ったようで安心しました」
にこりと人当たり良く微笑む趙雲に、馬超は眉間に皺を寄せた。辛そうに見えるような顔をしていた、という事だろうか。でも何に?考えてもその原因がよくわからない。思い当たるとしたら、たとえば。
「今日は馬岱殿はご一緒ではないのですか?」
「馬岱は軍師殿に呼ばれた」
そう、それだけだ。
「…諸葛亮殿に。…そうですか」
馬岱がよく請け負っている仕事の内容を、趙雲も知っているのだろう。僅かに表情を曇らせた。それまで流浪し続けてきたという劉備たちが、この成都を手中にしてまだそんなに時は経っていない。やらねばならない事は多いし、周囲の警戒は怠ってはいられない。馬岱や馬超も、周辺の部族との話し合いの場にはよく呼び出された。
だが今回は馬岱だけだ。
「…馬岱は冷静な男だ。軍師殿もわかっているのだろう」
「冷静な…。なるほど」
「なんだ?」
「いえ、馬超殿の馬岱殿への評価をはじめて聞いた気がしました」
思わず言葉を失って趙雲をじっと見つめた。一体何が言いたいのか、とほとんど同じ目線になる男をじっと見つめる。馬超の真っ直ぐな視線も、趙雲はじっくり受け止めた。
「…そ、それがなんだというのだ??」
「私は主を求めて転々としていたのですが」
「あ、あぁ。聞いた」
唐突に始まった趙雲の身の上話に少し驚きながら、馬超はそれでもその場を辞することはなかった。何故だかきちんと最後まで話しておきたかった。
「そういう事が出来たのは、私が身軽だった為だと思うのです」
「……趙雲殿は、確かに身軽だ」
「ええ、まぁ。ですがお二人はそういう事が出来なかったのだな、と」
「………なんだ、何が言いたいのだ?」
含むような物言いに、馬超の眉間の皺が深くなる。
「…怒らないで聞いていただきたいのですが」
「…怒るような事を言うつもりなのか」
「ここに馬岱殿はいませんしね」
「………」
思わず口をつぐんだ。確かにここに馬岱はいないし、これからの内容で果たしてどうなるかわからない。馬岱がいれば、まぁ確かに、自分を止められるだろう、とも思うのだが。
そうして黙っていれば、趙雲がやはり少し笑いながら謝罪する。
「すいません。今では劉備殿がおり、あなた方もあの方に従っておられる。無論、頼まれる仕事もそれぞれ違います。今後、そういう事も増えましょう。少し慣れた方が良いかもしれませんね」
「…何、を慣れろと言うのだ」
「馬岱殿の不在です」
「……趙雲殿」
何を突然、と思ったが、あえて言うのはやめた。だがその言葉自体はすんなりと耳に入れることが出来た。もっと突拍子もない事を言われるのではと身構えていたのかもしれない。
「はい」
「あなたに今、大切なものがあったらどうされる?」
「それは…無論、守ります。大切に」
「手元になくなったら不安ではないのか?」
「…そうですね、不安かもしれませんが」
「俺にとって馬岱はそういうものなのだ」
至極当然、と言ってみれば、趙雲は逆に驚いた顔をした。整った顔立ちのこの男の双眸が驚きに見開かれるのを間近で見るなどそうそうない事だ。
「……ああ、なんだ。気づいておられたのですね」
「当たり前だ!」
思わず声を荒げたが、その勢いにも趙雲は驚かなかった。
「はは、失礼しました。いつだったかの宴席で少し気になったので」
「……」
「あなたが張飛殿と飲み比べされていた時、馬岱殿は私の隣でずっとあなたの事を気にされていましたよ。絶対翌日潰れる、と笑っておられましたが」
「……実際その通りだったな」
いつの宴席の事かは考えずともわかった。飲み比べのあった宴席は後にも先にもその一回きりだからだ。
「ええ、張飛殿も星彩にこっぴどく叱られていましたけどね」
「……そうか」
思い返せばあの翌日、馬岱は時折様子を見に来たがそれだけで、星彩のように咎めることもなかった。ただ、水、と呟いた時にすぐに差し出されたそれに、礼を言って。その時、馬岱はにこにこ笑いながら、楽しかった?とだけ聞いてきた。痛む頭にようよう頷くだけだったけれど。
「………心配をかけていたということだろうか」
「そうですね、馬岱殿にも時には労わってさしあげては」
「いや、違う。趙雲殿に、だ」
「……あぁ、そう思って下さい」
心配する人というのはあなたではないですが、と笑う。
「であれば、すまなかった。言われた通り、戻ってきた暁には!」
「馬岱殿もあなたに労われるのが一番嬉しいでしょうしね」
二人でなにげなく笑えば、先ほど諸葛亮に呼び出されていた馬岱が戻ってくるのが見えた。普段よりずっと身軽な様子だ。まさかもう仕事が終わったとも思えないが。
「おや、ずいぶん早く戻られましたね」
「馬岱、どうした」
「あ、なんだまだここにいたの?若。それに趙雲殿も」
「ええ少しお話を。どうしたのですか?」
「若、今日は月英殿の手料理食べようよー」
「…何?」
「あー…」
身に覚えがある様子で趙雲が苦笑いした。
「趙雲殿知ってます?」
「ええ、私も一度お誘いいただきました」
苦笑する様子に馬岱も同じく笑う。
「なんか凄いんだってさ、量が!だから俺たち西涼の風の出番だよ!若!」
「いや、出番じゃないだろう…」
「いやいや、だってこれ、仲間の救援だよー?」
馬岱の言葉に気が遠くなるやらなんやらで、だがまぁ確かに困っている仲間を助けるという意味では救援なのかもしれず。思わず呟いた。
「…なるほど」
すると援護するように趙雲も口をはさむ。
「味などは、とてもおいしいですよ。だからこそ諸葛亮殿も困っておられるのですよね」
「どんなものか、楽しみだよねぇー!」
「…馬岱、おまえが誘われたのだろう。俺は…」
「え、俺二人で行きますって言っちゃったよ?」
「なっ」
「なんだったら趙雲殿も」
「私は今日はご遠慮させていただきます」
やけにきっぱり断った趙雲に、馬超が不安を覚える。が、目の前の馬岱の笑顔に太刀打ち出来るとは到底思えなかった。昔からこうだ。なんだかんだ言ってこういう時の馬岱に逆らえた試しがない。
「馬超殿だったらさぞ素晴らしい戦果、期待出来そうですね」
「なぜ俺が!」
「いいじゃない。みんなでわいわいごはん食べるのって楽しいよ!ね、若」
「……………俺は」
「ん?なになに?」
「な、なんでもない!あとで諸葛亮殿のところへ行けばいいのだな!?」
「あ、うん。あとで迎えにいくね?」
ずんずんと先を行く馬超の背に声をかけて、馬岱は首を傾げた。なんか機嫌悪い?と視線だけで趙雲に問えば、趙雲は相変わらずの笑顔を浮かべて言った。
「照れ隠しじゃないですか?」
何に対して、とは言わず。
馬岱は腑に落ちない様子だったが、とりあえず放っておいた。
どうせなら、ちゃんとした言葉は趙雲からよりも馬超から聞きたいだろうからこそ。
――俺は、おまえと。
たぶんそう言いたかったのだろうし。
それにもしかしたら、思ったよりもちゃんと言葉にしているのかもな、と考えを改めて、それから。
あんな風に少しの不在で苦しく思うくらいなら、もっともっと伝えないといけないのでは?とここにいない馬超に苦笑した。
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