笑顔のひとつぶ




 馬岱がいない部屋に、こっそり忍びこむ。
 そうするのが日課だった。特に何をするでもない。ただ何とはなしに馬岱のいない部屋を訪れて、彼の寝台に座ったり横たわったりしつつ、時が過ぎるのを待つ。
 特に何かをする事がなければ、張飛などが酒の誘いにやってくるし、劉備などに手合わせを頼まれることもある。ともすればそれは関羽や趙雲といった同じく五虎将のうちで行われたりもする。練兵もしなければならない。特に馬超に与えられた兵は半数以上が劉備のもとについてからの者だ。やる事はたくさんある。が、何とはなしに気がねなくいられる場所を探すと、つい馬岱の部屋へ訪れる。たぶん、馬岱は知らないだろうが。
(馬岱が頑張っているのだ。俺も精進せねばな)
 そう内心で思いながら、馬超はしかしその部屋ではいつも何もしないのが常だった。
 やる事がないともなると、さてどうやって過ごそうか、といつも思う。退屈だ、とも思う。だが出ていく気はあまり起きない。何故だろうな、と来るたび思う。
 そうして寝台に転がった時だった。床の上に、馬岱が愛用している筆が転がっているのが見えた。
 だらしがないな、と眉間に皺を寄せて立ち上がり、その筆を拾い上げて――ふと、いつも馬岱が戦場で、あの妖筆で描く画鬼の姿を思い浮かべた。
 馬岱が描くそれはいつも素晴らしいものだ。絵師などにひけをとらない、虎や龍、そして鳳凰などを描く。昔から、馬岱は手先が器用だった。妖筆を持って戦場に来た時は、何を考えているのかと一族揃って叱りつけたのも懐かしい思い出だ。だが結局、馬岱は筆を剣や槍に変える事はなかった。ある程度、操ることが出来るにも関わらずだ。
 そして反面、馬超はといえば、その妖筆を操るのが極端に苦手だった。正しくは、操れないわけではないのだ。だが、どうしても馬岱のような画鬼を描けない。
 大昔、馬岱に爆笑されて以来、妖筆を持たせろとは言ったこともないし、普通の筆をとったとしても絵を描こうという気にはなれなかった。
 馬岱はといえば、この成都の地でまだ幼い阿斗などを相手に見事な絵を描いては喜ばせていた。
 ひきかえ馬超は子供相手に喜ばせるような事は出来ない。趙雲などは阿斗の面倒もよく見ているようだが、馬超は怖くて近寄れない。むしろ子供が怖がって近寄らない。
 だが一度だけ、近寄ってきた事があった。
 馬岱は手持無沙汰になると画鬼を描いてみたりする。とはいえ龍や鳳凰などとは違う、もっとかわいらしいものも彼の手にかかれば簡単に形となる。
 ある日の天気のいい昼さがり、馬岱がいつも戦場に持っていくのとは違う、普通の筆で画鬼を、階段の一番下で腰かけて描いていた。
「おまえは相変わらずだな、馬岱」
 後ろからそうして声をかければ、少し驚いた様子で馬岱が振り返る。
「若」
「子供が見ている。続けたらどうだ」
「はいはい。…若が小さい子のこと気にするなんて、めっずらしいねぇ!」
 言いながらも馬岱は相変わらず素晴らしい画鬼を残していく。パンダだったり狼だったり象だったり、さまざまだ。
「…俺には出来んからな」
「知ってるよぉ、まぁ若の描く虎とか、俺結構好きだけどねぇ」
「お世辞などいらん!」
「えーお世辞じゃないって。愛嬌あるじゃなーい」
 そう言ってはいるが、過去に馬超が描いたそれをそんな風に言ったのは、馬岱くらいのものだ。他は言葉に詰まったり、ひきつったりして、何とかかんとか、お世辞を紡ぎ出す。そんな周囲に反して馬岱だけが爆笑して終わった。
 今でもあの時のことはよく覚えている。馬岱に勝てないと思った瞬間でもあった。
「俺の描くの、そういう愛嬌とかないからなぁ。若が羨ましいよぉ!」
「………軍師殿に頼まれたぞ」
「んー?」
「馬岱の描く絵をもっと見たいという民が多いそうだ」
「あっれ、そうなの?嬉しいねぇ」
 馬岱はそう言いながら笑う。彼の言う通り、彼の描くそれらは皆整然としていて隙がない。馬岱本人の雰囲気からは想像出来ないほどだ。
「そう言われたのは、はじめてだと思った」
「…そうねぇ」
「嬉しいな、馬岱」
「ん?」
「妖筆で戦場を渡るつもりかと一族の誰からも叱られて、だがおまえはずっとそれを手放さなかったろう。腕は見事だったからすぐに皆、納得したが」
「あはは。だって仕方ないよねぇ」
「仕方ないのか?」
「仕方ないのよ。だってこれ、妖筆だもんねぇ。普通の筆じゃないわけ。俺、この筆でいつも何か描いてないと死ぬ運命なのよねぇ〜」
 馬岱の言葉に、馬超は思わず立ち上がった。あまりにも唐突な告白に、思わず視界が真っ白になった気すらした。
 が。
「な…っ!」
「冗談よ?」
「……っ、ば、ばたぁぁぁぁぁい!」
「うわっぷ!ごめんごめん!ごめんなさいって!」
「驚いたではないか!」
「うんうんごめんごめん。ちょっと言ってみたかったんだよねぇー。これ言って女の子とか口説いてみたらどうかなーとか」
「知らん!」
 そうして二人でどたばたと騒いでいた時だった。

「あ、あの!」

 幼い声だった。視線を落とせば二人の足許にかわいらしい少女が二人。
 今思えばずいぶん勇気のある少女だった気がする。
「ん?なになにー?何かかいてほしい?」
 こくこく頷く少女たちがあれこれ言うのを聞きながら、馬岱はすぐにそれを画鬼に仕立てあげた。
「きみたちも何かかこうよ。うさぎさんとかどう?」
 近くに落ちていた木の枝を拾うと、馬岱はそれを少女たちに渡した。少女たちは頷くと、思い思いに地面に絵を描きだす。
 そのうちの一人、特に小さな方が、ふと馬超をじっと見つめた。その視線にたじろげば、唐突に俯いて地面に一心不乱に何かを描く。だが、子供の絵はなかなか判別がつきずらいものだ。
「何かいたの?あててみようか?」
 その少女に声をかけて、馬岱はその絵を真剣に見つめる。それから、すぐににっこり笑った。
「わかった!若でしょ。このひと」
 少女は嬉しそうに頷いて、馬岱も何故だかそれが嬉しそうだった。
「見る目あるねぇきみ!ほーらこの人、錦とか言われちゃってるのよー。かっこいいんだから!ほら、若もお礼言わないと!」
「な、え、いや、その、な、…あ、ありがとう」
 どもりながら何とかかんとか礼を述べれば、少女は嬉しそうだった。その横で馬岱も嬉しそうだし、さらにもう一人の少女――姉妹の姉の方も馬岱にべったりくっついて嬉しそうだ。何故だかわからないがとにかく恥ずかしくて顔が赤くなるのを堪えていた。

 そんな事も、あったな、と。
 馬超は、相変わらず一人の部屋で、馬岱が残した筆を手に、適当にそこらの布に小さく虎の絵を描いてみた。が、当然ながらその絵は昔から何も変わっておらず、相変わらず自分の不器用ぶりに遠い目をする。あの時子供が描いた自分の絵は、何故だか他の皆を暖かく笑わせたというのに。
 馬超はその絵をそのまま残して、部屋を出た。
 久しぶりに成都を歩いて子供たちの様子を遠くから眺めるのもいいかもしれない。
 そして馬岱が戻ってきた頃に、部屋の絵を見てたとえば少しでも。
 疲れがとれればいいが、と思いつつ。

 愛嬌のある顔をした虎は、一人部屋に残されてぽつり。
 いつか戻ってくる主の笑顔のため、そこに鎮座する。



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馬超さんの衝撃の絵の下手さに感銘を受けた(笑)