諸葛亮からの使いが来て、すぐいくよーと軽く答えた馬岱は、身軽なものだった。
これから何を頼まれるかは大体読めている。覚悟もある程度出来ている。諸葛亮ならば自分の信条を覆すような事は言ってこないのも、知っている。
「いつも申し訳ありません」
頼まれ事というのは、やはりあまり面白い内容ではなかった。他の者ならば嫌がるような話だ。だが馬岱はいいよいいよ、大丈夫、と笑う。
諸葛亮からしてみれば、彼はとても使える人だ。与えた任務には忠実にあたるし、その実行力は趙雲などと同じくらい高い。ありがたいことだ、といつも思っている。
劉備の仁の世を築くのは、難しい。そんなことは、三回、劉備に面会を請われた時にすでに気づいていた。この人は優しすぎる。汚いものは決して目に入れられない。だが天下を統一するというのは、そこまで簡単な事ではない。軍師という立場であるからこそ、あらゆることをやらねばならない。過去、ホウ統や黄忠などが劉備がその策を受け入れる前に城を落としたことがあった。それが、彼の為になると知っていたからだ。そして長引かせるのが決して得策でないとも知っていた。
だが問題はそれを実行する人物である。
口が堅く、じっと耐えることも出来、その作戦をきちんと理解し、実行に移るとなれば素早い判断の出来る者。
そしてその上で、どんな汚い内容でも、どんな企みでも、決して私情をはさまないだけの人物が欲しかった。
そして白羽の矢が立ったのが、馬岱だった。
「これだとちょっとかかるかなぁー。諸葛亮殿、大体どのくらいって希望?」
「そうですね、ひと月ほどでしょうか」
「ひと月かぁ。諸葛亮殿も相変わらずだよねぇ」
おかしそうに笑う馬岱に、羽扇で口許を隠して諸葛亮も笑う。
「あなただからお願いするのですよ」
「あらら、嬉しいこと言ってくれるじゃない?ま、任せといてよ」
「ええ、お願いします」
嘘でもなんでもない言葉だ。
成都での戦いで彼ら一族を迎え入れた。いくらか仕事を任せてみれば、馬岱はその容姿や雰囲気にはそぐわないほど、しっかりとした仕事をこなす人物だった。これは、と思って少しずつ話す機会を増やした。
そして気がついたのだ。
出ていった馬岱を見送って、諸葛亮は小さく呟いた。
「本当に…あの人は」
最後まで呟くことはやめた。誰かに聞かれるかもしれない。それは、馬岱にとっても嬉しくない事だろうから。
馬岱が準備をしていると、馬超が部屋へ来た。
普段このくらいの刻限ならばもう眠っていてもおかしくないはずの人だ。馬岱は少し驚いて、部下を下がらせた。
「あれーどうしたの、若」
「…何か、頼まれたのか?」
「ん?うん」
馬超に嘘をついても意味がない。その内容自体は言わないが、仕事を頼まれたのは事実。その部分だけは頷いておいた。
馬超もそうか、と頷くとすたすたとこちらにやってきて、寝台に腰かける。
「今回はどれほどあける予定だ」
「ん、うーん、どうだろう。ひと月くらいかな」
「…そうか。問題はないのだろうな!」
「まっかせといてよ!」
いつもの調子の馬超に馬岱は内心安堵した。ここに姿を見せた時は何やら戸惑うほど真剣な表情だったせいだ。馬超が真剣なのは、いつもの事なのだが。
「心配してくれたの?若ぁ」
「当たり前だ!馬岱が重用されればそれだけ、我ら一族の強さを周囲が認識するというもの!」
「そういうの、若が十分体現してくれてない?」
「何を言う!おまえは俺の誇りだ!」
まっすぐ真面目に言われて、しかし今更馬岱はそれくらいでは驚かない。長年のつきあいがものを言うというべきか、幼いころからこんな感じだったのだし当然である。
「まぁ、若が心配するようなヘマはしないよ?」
「………ああ、信じているぞ!」
やっぱり心配してくれていたのか、と馬岱は苦笑した。恐らくは馬岱が外出したのに気がついて、それから戻りを待っていたのだろう。そして頃合いを見計らってやってきたと。
「若も俺がいない間、無茶しちゃ駄目よ」
「…む、俺は別にいつも…」
「錦馬超の普段通りは飛びぬけてんだからさぁ。ね!」
むぅ、と馬超が腕組みして面白くなさそうな顔をする。さてこんな事を言ったところで、ひとたび戦となってしまえばもう馬超を止められるものなどないのだが。
馬岱はそれを後ろから見ているのが好きだ。止めるのは大変な事だが、それでも馬超が輝くような奮戦ぶりを見せることも、その姿を敵が恐怖するのも、全部。
「…馬岱」
「ん?」
「俺の後ろはおまえにしか守れん」
「ははっそうかもねぇ」
「…必ず戻れ」
「……うん。ありがと」
馬岱が頷くのを見て、馬超は安心した様子で、寝台に転がった。そこはもちろん馬岱の寝台なのだが。
「若、そこ俺の…」
「今日は共に寝るぞ!」
「えええ子供じゃないんだからさ若ぁ」
「そういう気分なのだ!何か問題があるのか!?」
「あるよぉ、あるある。狭いじゃない」
幼い頃は一緒に寝るなんてよくあった事だが、それでもやはり周囲からは叱られることもあったし、身体が大きくなってからはあまりそういう事はない。二人ともすっかり育って今やかなりの図体だ。だが今日の馬超は頑として聞き入れる気配はなかった。
こういう我儘も、ひと月聞けないか、と自分を納得させて、馬岱はやれやれと肩をすくめた。どうせここに馬超がいては、準備はさほど進まない。
少しの遅れくらいは、後の仕事に支障が出なければきっと問題ないのだろうし。
「もーしょうがないなぁ若は!ほらっ俺ももう寝るから奥いってー!」
「狭いな!」
「だから言ったでしょ!」
「だが懐かしい」
昔を懐かしむような言葉に、馬岱も頷く。狭さはどうしようもないが、それにしても、こうして二人そろって同じ寝台で転がって寝るのは、本当にいつぶりだろうか。
それからもしばらく、馬超は興奮している様子であれこれと語りかけてきた。昔はこうだったとか、今練兵している兵の事について、そして仲間のことたち。
これは答えているといつまで経っても眠らないのでは、というほど、次第に声は昂っている気すらした。
仕方なしに、馬岱は眠っているふりをする事にする。一定の感覚で、寝息をたててみれば、馬超はすぐそれに気付いたようだった。
しばらく、無言だった馬超に馬岱も安堵する。これならすぐ寝てくれるのではと思った矢先だった。
髪を触れられている。
馬岱の髪は少し癖がある。そして短い。それをわざわざ触れてくる馬超になんだろうと思っていれば。
「…無理はするなよ」
小さな声だった。そしてとても真摯な声だった。
馬岱は、思わず寝息の間隔が乱れそうになるのを何とか堪える。
敏い人なら気付いたかもしれないが、ありがたいことに馬超は気づかないようだった。
無理なんてなぁ、と。
諸葛亮もそうだった。いつも申し訳ない、と頭を下げる。そしていつでも言ってよ、と笑えばまた表情を曇らせる。軍師っていうのは大変だな、とつくづく思うのだけれど。
だが馬岱には有難い話だった。
馬超ほど、自分は輝かしい活躍は出来ない。そこまでの能力はない。だが、細かい事や、他人が嫌がる事に対して、自分は理解が出来る。それをしなければならない事を、きっちり理解して動ける。それを、諸葛亮がきちんと見出してくれているのは有難い。
そうして、自分が活躍すれば、それだけ馬超への評価だって上がるだろう。
それが自分は嬉しいから、何も無理はしていない。必ず生きて戻るし、決してその信条を覆すようなことはしないと決めている。
だって、馬超の後ろを守れるのは自分だけだ。
そしてひたすら、輝くような彼を眺めて喜べる人なんて、自分しかいないんだろうから。
必ず戻るよ、若。
心の中でそう呟いて今度こそ本当に眠りに就いた。
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