追いかけないといけない。
意地でも追いかけていかないと、見失ってしまうとわかっている。
だが意思に反して身体がついていかない。振り返るなんてあり得ない相手に対してそれを望むような事はしないが、それでも今だけは、こっちを見てくれと言いたかった。
いや、そもそもそう言ってみたところで立ち止まらないかもしれないけれど。
「はは…ほんと、ひどいよねぇ…」
仕方ない、と握りなおした妖筆を操る。描き出されたその姿は普段の龍や鳳凰ではなく、ただの鬼の姿だった。小さな鬼は、その姿をとると、唐突に何かに突き動かされたように走り出す。その軽妙な走りはそのうち姿を分けて、二匹になった。一匹はそのまま真っ直ぐ駆けだす。さらにもう一匹は、きょろきょろと周囲を見渡すと、何かを見つけたような様子で別の方向へ駆けだした。
それを見て、一息つくと何とか身体を引きずって、人目のつかない場所へ身を隠した。これでも一応、蜀で一軍を任されている身だ。そこらへんで転がっていてあっさり息の根を止められた冗談にもならない。
そもそも、自分は死なない程度の無茶しかしないと決めているのだ。
「ほんと…勘弁」
ぽつりと呟いた声は誰にも聞かれることはなかった。
馬超の隊からの報告が途絶えた。
最初に気付いたのは諸葛亮だった。前線を駆ける彼のこと、今まさに戦っている最中なのかもしれない。だが、馬超の隊には馬岱がいる。曹操に迫るだけの強さを持っている馬超は、実のところ諸葛亮には多少御しがたい相手だ。
趙雲や関羽、張飛といった歴戦の将とは違って、彼には猪突猛進すぎるところがある。前しか見ないというか、後先考えないというか、無論そういうところが他の将にないのかと言われれば違うのだが、それでもここまで世界を遮断するような戦い方をする人は他に知らない。だからこそ御しがたい、と思っていた。その上で、馬岱を馬超の隊に組み込んだ。
当初はうまくいっていた。まめに報告をしてくる馬岱になるほど、と諸葛亮はつくづく感心した。恐らく昔からそうだったのだろうが、輝かしい戦功をたてる馬超と、その裏で地味に細かい仕事をしてくるのが馬岱だった。
その馬岱から、報告がない。
その意味するところは――と考えて、諸葛亮はすぐさま伝令に声をかけた。
「急ぎ趙雲殿の隊に連絡を」
考えている余裕は恐らくあまりない。諸葛亮の指示は素早かった。
趙雲の行動は素早かった。諸葛亮の急ぐようにとの言葉を受けてのものだ。何を考えているかよくわからないと言われる諸葛亮だが、その策については信頼がおけることを趙雲はよく知っている。その軍師が、恐らくは危機と思われる隊の存在を察知したわけだ。これを無視することは出来ない。
それまでの行軍から行き先を転じて、馬超たちの隊がとった進路を目指すことに躊躇いはなかった。
それによくよく見れば空には薄暗い雲がたれこめている。これはもうしばらくすれば雨が降る。雨はただでさえ兵の士気も体力も落とすものだ。
「急ごう」
それだけ言うと、趙雲が動く――と。
「将軍!」
「なんだ」
何やらざわつく陣中を訝しめば、その騒ぎの中心がひょこりと姿を見せた。
それは、明らかに人でないものだった。そしてそれは、これまで見たことのない絵ではあったが、すぐにわかった。馬岱が描く、画鬼だ。
小鬼はなんとかして辿りついた風でもあった。ひょうきんな動きの中に、重さを感じる。馬岱の状態を表しているようで、趙雲はすぐにそれを察する。
「…案内をしてくれるのか」
画鬼に声をかければ、それを理解したのかどうなのか。一目散に小鬼が駆けだす。それまでのひょうきんな動きはどこへやら、その健脚に思わず目を疑った。
慌てて趙雲が号令をかける。
「いくぞ!」
空を見遣れば暗雲はさらに重くたれこめていた。雨が降ったらこの不思議な生き物はどうなるだろうか?とにかく少しでも早く、距離を詰めるべきだった。趙雲の気迫を感じたか、兵たち行軍速度は普段よりも早い。趙雲の隊に諸葛亮が伝令を寄越したのはおそらく機敏さに因る。
小鬼は振り返らないし、足も止めない。次第に空気はどんより重く、冷たい気配を含んできた。雨の気配だ。場合によってはどこかで雨を避けるべきかもしれない。だが、そう考える傍らで趙雲も行軍を止めることはなかった。
雨が降っている、と気づいた瞬間には敵を全てなぎ倒していた。
左の腕が痛むのはおそらく敵との乱闘の末に出来たものだ。ち、と舌打ちした馬超は周囲に首を巡らせた。
「…馬岱!」
だが、そこに至ってようやく、馬岱がいない事に気がついた。返る言葉がない。
いつもならばすぐに、なになに?と姿を見せる彼の姿がない。どういうことだ、と自分の記憶を探っても、どこからいないのかがわからなかった。敵はずっと追いかけていた。そういえば追いかけると決めた瞬間に馬岱が何か言っていた気がする。だが何と言っていたかわからない。
わからないが、馬岱がいない事が馬超の中で強烈な衝撃だった。
「おのれ…!…馬岱を…馬岱をどこへやった!下劣な手段を使うなど…!」
答える相手のいない戦場で一人叫ぶ。周囲の、馬超の隊の者たちはその姿に怯えて声もない。
すでに答える術のない相手に声を張り上げ怒鳴る様は鬼気迫っていた。
が、そこに。
「ば、馬超将軍!」
声に振り返れば、そこには馬岱が残したと思われる墨で描いた小鬼がいた。明らかな異形の姿。馬超の姿を見止めるとすぐに元来た道を駆けだす。馬超はそれが何かなどとは問わなかった。そんなことが出来る者など、一人しかいない。
「今行くぞ馬岱…!」
それが進む先に必ず彼がいる。盲信に近い何かを胸に馬超が駆けだした。兵たちはその姿を見て呆然としたが、それでも彼らと共に西涼を駆けた兵たちを中心に、再び馬超の後を追いかけた。
だが、その馬超の兜をぽつりと水滴が濡らした。雨だ、と誰かの声。あっという間もなく、雨は猛烈に勢いを増した。そして画鬼はなす術もなく姿を消した。そもそも画鬼が、これだけの時間その姿を保つというのははじめてのことだ。道しるべのなくなった状態ではあったが、馬超は雨に消えた画鬼の姿があったところをじっと見つめると、そのまま歩きだした。
雨足は強くなるばかりだ。馬岱も雨にぬれているはず。何かあったのだとしたら、早く行かねばならない。身体は雨で冷えてきた。それに従って、戦で得た熱も落ち着いていった。冷えた身体が彼に冷静さを取り戻させる。
(俺は…)
もし馬岱に本当に何かあったらどうするだろうか。
冗談にもならないような事を考えて、馬超は首筋に刃を突き付けられたような感覚を味わった。今まで当たり前のようにそこにいて、当たり前のようにその存在に頼ってきた。
もしいなくなったらどうすればいいだろうか。一人で何もかもをやれるだろうか。自分が出来ないことを馬岱がことごとくやっている事を、馬超は知っている。彼が、諸葛亮から頼まれていつも何か――目に見えないようなことで功績をたてている事も。
「…馬岱」
ぽつり、と呟いた時だった。
「将軍!前方に…趙雲将軍の隊が!」
言われて、馬超は首を傾げた。趙雲は確か別方面からの進軍を任されていたはず。それがどうしてこの先にいるのか。馬岱が呼びとめていたのはまさかこの事だったのか?それとも――。
「馬超殿!」
知った声に顔を上げる。劉備や諸葛亮、誰からも信任篤い男が目の前にいた。
「…趙雲殿、何故、ここに」
「話は後です。馬岱殿を」
「…!馬岱!」
その名におおいに反応して、馬超は趙雲が示す先へ駆けた。
大きな木の根元でぐったりしている馬岱は酷く顔色が悪い。だが、息をしていないわけではなかった。
「馬岱!無事か!」
「あー…若?」
朦朧とした馬岱の声。こちらの輪郭をとらえているかどうかもあやふやなほど、その視線はうつろだ。
ふと見れば腹に矢傷を負っていた。まさか隊の殿軍が何かあったのか。気づきもせずにただ前方しか見ずに自分は駆けたのか。ようやく気がついて、馬超は俯いた。
「はは、大丈夫だよぉ、若…趙雲殿、手当てしてくれたしね…」
力ない声ではあったが、はっきりとそう言う馬岱に馬超は頷く。
「それに若も…怪我」
「俺の傷など大したことはない!」
「だーめだよぉ。若が槍を不自由なく使いこなせなくなるの、俺はやだなぁ…」
それまで馬岱を手当てしていたらしい兵が馬岱に請われて馬超の傷も手当てすると言いだした。馬超は最初それを断ろうとしたが、馬岱が「若」とだけ言って咎めるのでやめた。
「馬岱殿、動けますか。矢はともかく軍師殿のところへ戻ってから」
「うん、大丈夫…」
手当てを受けている横で馬岱の身体を趙雲が支える。
他人の肩を借りねば動けないような状態のくせに、馬岱はすれ違い様に言う。
「…若、ちゃんと手当て」
「…っ、わかっている!おまえはもう何も心配するな!」
ぐっと堪えながら馬超が声を昂らせた。
結局、馬超の軍を趙雲がまとめるとすぐにとって返すことになり、馬岱は本営で手当てを受けた。
傷は思ったよりは深くなく、致命傷になることはなかった。馬岱自身の回復力もあって、しばしの間安静にしているよう言い渡されたわけだが。
「…若、どうしたの」
馬岱が療養に使っている陣幕内に、馬超はしょっちゅう姿を見せた。そのたびに何か言いたそうにしているのだが言わずに去っていく事数回。さすがに妙な緊張感が走っている。耐えきれずに困ったように馬岱が問えば、拳をきつく握りしめた馬超が、改めて馬岱の横になっている寝台の横に立つ。
「………痛いか!?」
「ん?ううん?今はもう大丈夫だよー?」
「そうか、良かった!」
何かわからないがいつも以上に力んでいる馬超に、馬岱は弱り切った。大体、何を思い詰めているのかは察することは出来るのだが、馬岱としてはあまり気にしてほしくない事だからだ。
「う、うん。ありがとう。ちょい…若、どしたの」
だがそうして困っていれば、馬超はふるふると拳をふるわせ、今にも感極まって泣くんじゃないかとすら思えて慌てる。
「俺は俺のこの気質が嫌で仕方ない」
「…若?」
「おまえが倒れていることすら気付かずに…!俺は!」
想像通りの言葉に、馬岱はいつものように、軽い口調で言う。
「いいんだよぉ、若は。ちゃんと来てくれたじゃない?」
「だが…だが、趙雲殿の方が早かった」
「そうだけど…」
唐突に出た趙雲の名に思わず首を傾げた。確かに画鬼は、どうやら趙雲のところへ向かったようだ。そういえば自分の状態がまずいと悟った時に、誰に助けを求めるかと悩んで咄嗟に趙雲を思い描いた気はする。だがそれは、おそらく蜀の誰もがそういう時に彼を思い浮かべるだろう。あの男はそういう男だ。
だがそれが馬超の中で何かを揺り動かしているのかもしれない。
「何故もっと早く気付くことが出来なかったのか…」
「敵は倒したんでしょ?若」
「あぁ」
「ならそれでいいじゃない?若もちゃーんと活躍して、俺は無事で、それで問題なんてないない!」
「…俺はもっと自分を律せねばならん」
「…わーかー?ほんと、気にしないでよー」
どう言えば納得してくれるだろうか、と考えながら馬岱は馬超の顔色をうかがいながら笑う。だが馬超は少しもつられない。これは重症だ。よほど今回のことは、馬超の肝を冷やしたのかもしれない。
「…正義を貫く、などと言いながら…大切なもののひとつも守れんとは」
「……もう、若はちょっと思い詰めすぎだってー!いいんだよぉ、俺は。生きてるしね!それに若はそうでなきゃ、若じゃないでしょ。無理に自分を律するとかさー、そういうの、いいんだよっ」
「よくない!」
「……若」
「俺のことを人は錦だなどと言うが、そんなもの…おまえがいなければあり得ぬことだ」
「そんなことないって…」
馬超の戦う姿が、人の心を躍らせる。それは馬岱が一番よく知っている。別に、自分がいなくたってそれは変わらないはずだ。いつだって馬超はたった一人でも、誰もが素晴らしいと感嘆するだろう。
「だから、その…詫びたい、のだ!」
「もう十分だよ、若」
「そんなことはない!」
「ほんとだよ」
「馬岱、おまえは西涼の宝だ。…それに、その、…なんだ」
「なんだろう?」
「お、俺にとっても、その」
「…うん」
「た、宝だ!」
どもりながらも正々堂々、声を張り上げた馬超に馬岱は小さく笑った。これだからこの人は。
「わぁー…嬉しいよ、若」
「ほ、本当だぞ!」
「うん」
「だから…その…」
「……」
「すまなかった」
「うん、ありがと」
笑った馬岱に馬超が少しだけ安堵したようだった。馬岱もその様子に安堵する。そして言われた言葉はどれもこれも、馬岱を浮きたせるのに十分なくらい、嬉しいものばかりだった。
動ける身体ならば、それこそ馬でも走らせて一駆けしたいくらい。
「俺もごめんね、若」
馬岱の言葉に、馬超は一瞬大きく双眸を瞬かせて、それからこくりと頷いた。
「…もう二度とごめんだから、な」
言うと、馬超は少し迷ったように手を伸ばす。その手が馬岱の髪を撫でつけて、みるみるうちに顔を真っ赤にすると凄い勢いで飛び出していった。
「……ほーんと、若は俺をやる気にさせるのがお上手」
触れられた髪を自分の手で触れながら、馬岱は嬉しそうだった。
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