頬の上なら満足感の




 息を吸おうとして、うまく出来ずにむせた。
 夜中に時々こうなって、うまく眠ることができなくなる。理由は大概が昔、あの報告を、馬岱から受けた時のものだ。もしくはそれに関連する戦の記憶。
 夢の中、現れたその記憶にいつも馬超は息がうまく出来なくなって、転がりこむように馬岱のところを訪れる。
 その日、馬岱の部屋を訪れた馬超はいつもは敏感に気配を察する馬岱が反応しないことを訝しみ、だがそれどころではない、と部屋の中に入り込んだ。
 探せば馬岱が疲れたのかぐっすりと眠っている。しかもなぜだが、寝台に上がらず、寝台にもたれかかるようにして眠っていた。外へ行っていたのか服装もしっかりしている。
「…馬岱」
 声をかけると馬岱は少しだけ眉間に皺を寄せた。だが目覚める気配はない。相当疲れているのだろうか。いつも笑顔を浮かべている彼が珍しい。目覚めないことに少しだけ怯えて、馬超はそっとその肩を揺らした。
「…ん…」
 だが少しだけ呻くような声をあげただけだ。
 仕方なしに、馬超はその横に腰を下ろした。馬岱がなぜこんな風に眠っているのかはわからない。
 疲れているらしい馬岱は眉間に皺をよせたままだ。いつだったか彼が、馬超の眉間の皺を小突いた時のように、馬超もそっと触れてみる。
 小突くというほどの勢いもなく、本当にそっと。
 すると、ゆるゆると馬岱が目を覚ます。ほんの僅かに青みがかった瞳が、ふと馬超の存在をみとめる。その一瞬の照準が定まる僅か。その一瞬に震えた。
「……馬岱、俺だ」
「…っれ、若…?」
 どうしたの、と聞かれて馬超は夢を見た、と答えた。馬岱にはそれだけでわかる。
 一族が壊滅した話。そしてそれを伝えてきた馬岱。その後続いた戦。その中で何度もあったことだ。劉備に帰順してからは回数こそ減っているものの。
「大丈夫?」
「…あぁ」
 頷いた馬超に、ふと馬岱がゆるく笑う。
「若、俺ちょっと今日疲れちゃっててさー」
「あぁ…そのようだな。こんな時にすまない…」
「でもさ、若に抱きしめてもらえたらたぶん元気になれると思うんだ?」
「……そ、うか」
 それは。
 それまではこの症状が出た時、いつもいつも馬超が馬岱を抱きしめていた。特に理由はない。それをする事で劇的に症状が良くなるわけではない。ただ、そうしていると苦しかろうが耐えることができた。
 今日、馬超からそうしなかったのは馬岱が疲れきっているのがわかっていたからだ。こちらの都合を押しつけるわけにもいかない。そう思ったのだが。
「…ならば、…仕方がないな」
「うん。いい?」
 笑った馬岱に馬超は頷くと、そのまま両手を広げた。ごく近い位置だ。肩が触れ合うくらいの距離でそうして話していた二人は、馬超が両手を広げると馬岱は四つん這いでさらに近寄って、馬超が抱きしめやすい位置まで移動する。
「………」
 馬岱を抱きしめると、その体温にまずほっとした。ほっとして、息を吐く。抱き寄せれば馬岱は身体を移動させた。ぴったり密着するように、座ったまま抱きしめているような格好だ。最初は両手とも背にまわしていた手は、そのうち馬岱の首へまわった。
 なんでこんなにほっと出来るのか。女相手に抱きしめてみた事だってもちろんあるにはある。だが、その身体の細さに、満足いくまで抱きしめることはどうしても出来ない。怖いと感じるのだ。簡単に殺せる気がする。そんな風に、ふと血のにおいを感じるのだ。その皮膚の下に流れるものの。
「若の身体はあったかいねぇ」
 かなり力を込めて抱きしめているにも関わらず、馬岱は呑気にそんなことを言う。ほんの少し嬉しそうに聞こえる声で。
 そんな風に言われるたびに、じわじわ胸に広がるのはあたたかい感情で、失ったもののうちの一つで。いや、失ったと思っているもののうちの一つ、だ。
 実際は、たぶんここにある。失っていない。
「…おまえもな」
「まぁ、当たり前だよね」
 生きてんだから、と笑って言う馬岱に、馬超はまた力を込める。
 怒涛のように、日々を過ごして人を殺すことばかり考えてきた。人、というよりは曹操という存在と、それを支える人間を。曹操を守る人は多い。彼らを越えていかねば曹操には辿り着けない。その焦燥感たるや、日々自分の中の何かを食い荒らしていくようで、胸の内に積もった黒い感情はどうしようもないまま時を過ごした。
 だがそのたびに、馬岱に救われていた気がする。今だってそうだ。久々の症状に、疲れているだろうに。
「…今日は、忙しかったのか」
「ん、うん。まぁねー…」
「…軍師殿にこき使われているらしいではないか」
「あの人抱えてる量半端じゃないからねぇ。俺も無理なもんは無理だっていつも言ってるから、大丈夫よ」
「……だが」
「若」
「な、なんだ」
「俺ね、若みたいに華々しい活躍なんか出来ないからね。出来ることを見極めてくれる諸葛亮殿は、結構好きだよ」
「…そうか…」
「うん。まぁたまに疲れちゃうけどさー。でも若が、こうやってくれるならそれでもう全然大丈夫」
「……馬岱」
「ありがとね、若」
「…お、俺こそ礼を言わねば…!」
「まぁまぁ。俺で役に立てるなら嬉しいよ」
「………」
「ね、若」
「………俺だとて、同じだからな」
「…え?」
「俺が、馬岱のためになることができるなら嬉しいぞ」
「…そっか。じゃあ俺たち一緒だねぇ」
「あぁ…」
 ふと首を動かせば馬岱の顔が至近距離だった。やはりまだ眠いのだろう。瞼は閉じているその様子に、ふと馬超は笑みを浮かべた。気がつけばむせてうまく息が出来なかった苦しさなどどこへいったのやら。それどころか逆に、自分の心の中、どこかにたまっていたらしい虚のようなものまでふさがっていくような感覚だ。
 本当に、これだけは馬岱にしか出来ない。
 そして馬岱にとっては馬超が。そう自惚れていいのだろう。きっと。
 その事実に奇妙なほどの満足感を覚えた。不思議なほど、幸せな気分になった。
 そして、馬超は押しつけるように馬岱の頬へ、口づける。
 口づけ、というにもあまりにも色気も何もなかったけれど。
 そうされて、はじめて馬岱は目を覚ましたようだった。
「…と、若、不意打ち…」
「…したかったからしただけだ」
 伝わってくる体温が少しあがったような気がして、それだって馬超の中で、満足感に切り替わる。
それはたぶん本当に、幸せとしか言いようのない時間だった。



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優しい時間。